episode  9   ヒマラヤ紀行 (神との出会い)、、、完結、、

 

1981 TREKKING of HIMALAYA two MONTH

NYにて、15年間を費やした美術探求に挫折した私は明日への目標を見失ってしまいました。よって自分の限界を感じてみたいと2ヶ月間のヒマラヤ行脚を企てたのですが!!

 

 

目次

1-NYロフト、、、、、、、、、、、、、 契約裏切り、ウインチェスター、禅定、サチコ、ヒロコ、コスモ、強盗、池田満寿夫、イサム野口、島崎コ                     ーポレーション、イースト&ウエスト展 、ソーホー画廊、創作挫折、心霊写真、オッカー入院、再び旅立ち                    !!

2−インドコバラムビーチ、、、、 、日本人バックパッカー、、原住民の帆かけ丸太舟、ヨット、ダイビング、オッカー、土地購入、ミサコ、コバラ                    ムホテル、モルデブ、登山隊長。

3−インド縦断、、、、、、、、、、 、列車ー乞食、アジャンタ石窟寺院、

4−ダージリン、、、、、、、、、、 、山岳鉄道、初めてヒマラヤを遠望、

5−ネパールカトマンドー、、、、、 トレッキング準備、うさぎステーキ、サムライ、コスモ再開、ジェラシー、

6−ルクサング、、、、、、、、、、 、鳥小屋、トラック、崖の獣道、村人の手助け、療養、断念!!、再出発!!

7−エベレスト街道、、、、、、、、、連山、杖、カッコー、隠遁坊さん、ナムチェバザール,田中達仲間と最再会、世界最高峰のホテル、、高山 病の旅人、崖崩れ、崖渡り、寺、雪なだれと雷鳥、アメリカンキャメラマン。日本人死亡、氷河末端体積、ゴラクシェプ、カラパタール、二羽 のキョンズム 、神との出会い、、ロシア登山隊キャメラ部隊、旅人と登山家の感性の違い 、どうして人は山に登るのか、氷河湖、シェルパの娘、、ヒマラヤ飛行、長距離バスの惨事、

8−インド、スリランカ(セイロン)、 禅道場、野火、スキュバーダイビング、スリン像祭り、内戦、

9−インド雨季、、、、、、、、、、、、ブダガヤ、列車、平地に蘇る神とのバイブレイション、ガンガ、不快指数200%、

10−バンコク、、、、、、、、、、、、 楽宮ホテル、旅人の歌、ギターを持った渡り鳥、冷気茶屋、舐め舐めハウス、ドシタニカフェーの女、パッ                     ポン、タニヤ、人間にな る為の堕落、

11−日本、、、、、、、、、、、、、、 法定伝染病赤痢、淋病、親戚の娘、再びNYへ、、!!

12-、、、、、、、、、、、、、、、、、、挫折者の現実、処女崇拝、船出を決意!!

 

序文

          旅人の詩

              金の北米

                女の南米

                   歴史の欧州

                       、、、、、、、、、のアジア

                            、、、、、、!

                                燃える青春、惨めな老後!!

世界を旅するバックパッカーにとって、バンコクチャイナタウンの楽宮ホテル(らっきゅう旅社)は堕ちた極みの聖域でした。階下には現役の娼婦たちが住み、また、家のためにその乙女の体を売った少女たちの病に犯されてしまった後のよりどころでもありました。ここの二階が我々旅人が泊れる部屋になっていました。ここの壁に殴り書きしてあった、、、旅人の詩、、、です。私は部分しかおぼえていないのですが、あれからすでに二十四年、、、いまだに強烈なインパクトを持ってわたしの内にくすぶっているのでここに書いてみました。

 

 

NYロフト

1978年、、マンハッタンのビレッジに創作の為のロフト契約。

1969年、(二十四歳)に東京の専門美校を終えてから日本を出て、カリフォルニアに二年在住それからNYのアートリーグ美術学校に五年。そしてパリ自費留学のためにNYを後にしたとたんに三年暮らした恋人に振られて自己喪失。仕方なくパリでの創作断念。恋人への思慕怨念を胸に地球一周放浪自分探しの途上にインドで仏陀の禅定に出会い歓喜!!一年と三ヵ月ぶりに真っ白になって帰ってきたNYでした。この時私(三十三歳)に成っていました。

ビレッジのイーストブリーカーSTに千二百SQの半地下のロフトを新聞で探しました。そこには二人のアメリカン青年が住んでいて、彼らに多額のデポージットを払って譲り受けたのですが。このロフトのオーナー(女性)はこのビルの上に住んでいて今は彼女が持っているダンスカンパニーを引き連れてヨーロッパ公演に出かけているようでした。人に譲るという話はしてあるから問題ないといいます!!わたしは単細胞ですからこの話を信じてそこに住み始めたのですが、その後ヨーロッパから帰ってきたこのビルのオーナーが私のロフトを訪ねてきました。そしてアナタは誰か?どうしてここにいるのかと聞いてきましたからその訳を説明したら、、、。そんな事はありえないことだと、このロフトは彼女のものなのだから以前ここにいた二人の青年には売り買いするなんてことは出来ないのだと、、、。つまり私は騙されて金を払ってしまったのでした!!

私もオーナーのおばさんも困ってしまいました。なぜなら騙されてしまったのだから出て行ってくれといわれても、私はもうほとんどお金が底をついていたのです。地球一周行脚と絵を描くためのこのスタジオロフトのデポージットに五年間貯めたお金を使い切ってしまったからです。私は頭を下げて必死になっておばさんに、後生だからしばらくはここに居させてくれと頼み込みました。私にしてもまったく動きが取れない状況でしたから。仕方なくお相撲さんのように太ったリーおばさんはOKしてくれました!!

こうして東京を含めて十年の美学生時代に終止符を打って私は創作三昧に入って行きました。テーマーは人間の深淵、二面性、善悪の合体、歓喜、大地、コスモス、、、、とめどなく楽しくアイデアは湧いてきました。

創作がてら、ロフトを住みやすくしようと余りにも汚かったトイレの天井をはがしていたらシッカリ梱包された包みが二つ、、ドサッ、、とばかりに床に落ちてきました?これはナンだ、、密閉されていた天井裏からの贈り物です、私は気味悪くなりましたが、おそるおそる包みを開いてみました!!おどろく事に出てきたのは部品にばらされているウインチェスターのライフル銃でした!?もうひとつの小さい包みは弾薬でした、、、!!ここはNYです。、、、、、、!!

ミッドタウンの日本レストランで週に三日のバーテンダーのバイトをしながら日々は過ぎていきました。わたしはインド以来のツルツル坊主頭です。禅定は毎日やっていましたから、私のロフトを訪ねてくる友人たちはだいたい強制的に一緒に座らされてしまいます。なぜならこのメディテイションがどれほどに精神状態に良い結果をもたらすかを私がとうとうと彼らに説くものですから,だいたいはやってみようかという気になるようでした。それにロフトにはピンポン台も友人たちがお金を出し合ってここで楽しむ為に買ってくれましたし、遊びに来れば料理の出来ない私でも特性のスパゲテーとスピナッチサラダは大好評で皆が舌鼓を打ちました。友人のダンサーのサチコは一緒に禅を組みながら自分も頭を剃りたいというから、それはいい、そんなもの剃ってしまえ気分がよくなるとかいって私は彼女の頭をきれいに剃りあげてやりましたらおどろくことに以前よりも数倍も美人にサチコは生まれ変わってしまいました!!もう一人ユミも剃りたいというからこれも剃り上げました!!ブッディズム真っ只中、禅定真っ只中、創作真っ只中の私のNY青春黄金時代だったのです。

 

ヒロコ

グラフィックデザイナーのヒロコは、ダウンタウンのイタリアン街に恋人が居るようでしたが、何か悩んで私に言いました。

「ねえートミさん、私のボーイフレンドね、イタリアン街でカフェーをまわりながら弾き語りしているイタリアンなんだけど、とってもいい奴なんだあ、、でも、あたしが結婚したいって言ってもOKくれないのよう、、、、だからねトミさん一緒にいって彼に会ってくれる?」

「だからって、ナンだよ俺が会いに行ったからって別に何も変わらんだろうが、、、知らんよそんなもの自分でやれよ、、ヒロコ」

「やだあーッ、、お願いトミさん彼に会ってよ。そしてなぜヒロコと結婚しないんだって言ってやってよう、、、。トミさんが言ったらきっと彼は話聞くと思うは」

とうとうヒロコにほだされて、イタリアン街へと一緒にいく羽目になってしまいました。彼はギター片手に弾き語りの仕事に励んでいました。時間を見つけていやいやながら私とヒロコのテーブルに座った彼でした。名前はダリオ。私もいやいやながらここまで来たんだからとヒロコの真情を彼に話して、どうしてヒロコと結婚しないのかと聞いてみました。彼の答えは振るっていました。

「アナタが思っている結婚観と自分の結婚観は違う。自分は今ヒロコが好きだから付き合っている、それでいいじゃあないか。あなたにとやかく言われる問題ではないと思います」

「ホラ、ヒロコ言わないことじゃあないだろうが。彼だってヒロコのことはっきりスキだって言ってくれているんだからこれでいいだろうが」

それでも不満顔なヒロコでした。

{しかし、そんな彼らは翌年には結婚して日本へと行き、何とダリオはNHKの朝のイタリアン講座の講師として日本の茶の間をにぎわせたという事でした!!(幸の偶然)}

これと同じ話がダンサーのサチコにもありました。

 

サチコ

サチコはダンススタジオに通う傍らときにはは自分のグループの公演もしていました。サチコの彼は日本人でクラブのマネジャーだったか、、、、ヒロコとまったく同じことを私に言ってきたのです!!結果、やはりその彼に会ったのですが。これがまるでゴルゴ十三のように寡黙で切れ長のかみそりのような目、にこりとも崩れない青い頬。私は仕方なく用件だけを言ってみたのですが。まるで反応がありません。だからサチコこれは無理だよ結婚なんてあきらめたほうがいいよと伝えたのですが、、、、

{これまた数年後には二人は結婚して日本へと帰り長野の彼の実家で仲良く畑を耕していたそうです!!(幸の偶然)}

 

コスモ

もう一人はコスモ、、彼女はジャズピアニスト。彼女の願望は本当の意味では結実しなかったのですが、さわりを書いて見ます。コスモはギターリストの貴公子マスオの大フアンでした。まるで神様のように慕っているのです。マスオはローリングストーンだったかのメンバーでいつも世界を回っていました。コスモはマスオが早稲田のジャズ研に居た頃からの追っかけでした。そしてこの時とうとうマスオを口説いてコスモはジャズのレコードを吹き込む事になったのです。バックの演奏はマスオをはじめとしてそうそうたる有名演奏家がこれに加わりました!!そのレコーディングのまえにコスモが私のロフトに来ていいました。

「トミさん一緒に行ってね、、レコーディングの間中ミキシングルームで歌うあたしを見ていてね。それでないとアタシマスオさんと一緒できっと、、もう声が出なくなってしまうと思うの。だからトミさん一緒に来て、そしたらあたしきっと歌いきることが出来ると思うの」

これがコスモの言い分でした。私も何度かコスモと一緒にマスオには会っていたし稀代の天才だと認めるミュージシャンだったから行く気になりました。結果レコーディングは無事に終わりました。

{しかしコスモとはこれから十数年予期しない形で、わたしのパーフェクトストームでの(1991年11月1日)死を占い、、、絡み合うことになります}

 

ジュン

私がカウンターでバーテンをしているときに青年が訪ねてきました。仕事を探しているがこの店で使ってくれないかといいますから、そんなのここの社長に聞きなよ奥に居るからといったら。ジュンと名乗った彼は顔を紅潮させての賜ったものでした。

「あのうどうしてあなたは頭を剃っているのですか?」

と聞いてきましたから簡単に、失恋して旅に出てインドで禅に出会ったからだと応えると。いきなり、

「ぼくはここであなたの居るところで働きたいと思います是非使ってください、、おねがいします」

「だからあ、俺じゃあなくて社長に会ってそういいなよ、とりあえず話はとうしてみるけどな」

結果、彼は無事にウエイターとして働き始めました。彼、ジュンは慶応ボーイで卒業してからデザインに興味を持って桑沢に学んだといいます。今はNY大学の語学コースを取りながらファッションデザイナーになりたいと言っていたのですが。この頃日本から太鼓の豪快なオーケストラオンデコ座がNYに来ました。これは聞きたいじゃあないかいとジュンと二人でこのステージを見に行ったのです。その最中佳境に入った力強い太鼓の大音響がホールにこだましているときに隣のジュンが号泣し始めたのです!!

「これだあ、、、これは凄い、、音楽だ、、俺はトミさん決めました音楽屋になります」

それからは店に来るコマーシャルミュージックでは大御所のタイムズスクエアーの(デックラブスキー)ミュージックハウスの社長や部下たちに取り入ってジュンはとうとうそこの社員なりました。それからの勉強は凄いものでした。たちまちの内にジュンのシンセサイザーによるミキシングは評判を取り、彼はまっしぐらに極みに向けて駆け上り始めました。

{インターネットで JUN MIZUMACHI と検索してみてください、2007年現在の彼のアメリカでの活躍が一目瞭然です(幸の偶然)}

この彼らは幸運を手に入れる人格をそもそも持っていたのでしょう、しかし、その手がかりとしてわたしに絡んだのかもしれません!!

マンハッタン、誰もが強烈な意識を持っていて始めて生きれるところ、、カリフォルニアの人たちはこのニューヨーカーの生き様を評して、、やつらはクレイジーだよと切って捨てます!!(私にとってはどちらも魅力的な生き様なのですが)

 

強盗

私のバイトからの帰りはミッドナイトになります。ある冬の日のことでした。ロフトに帰り着いて半地下にあるシャッターを開けようと階段を下りようとしたらいきなり体当たりを食らって階段の下にわたしは突き落とされました!!何ごとかと思って立ち上がったら刃渡り二十センチもある代物を振りかざしながら。

「オイッ、、金だアッ、、金を出せッギブミーマネーッツ、、、」

強盗が叫んでいました!!このやろうあぶねえじゃあねえかとか言いながら私が手にしているロックをぶつけようとすると後ずさりします。何だオイラも怖いけどこいつも怖がってるんだと見て取りました。しかし振りかざしてくるナイフは厚手のピーコートでさえぎられて私の体にはまだ傷は受けていなかったのですが、この強盗も始めてしまった以上は金を取るまでは後には引けないだろうし困ったなあとか考えながら、ウインチェスターを思い出しました。シッカリ組み立てて保管してあります。自分がドアに近くに居るんだからとにかく中へと入って銃を持ってきて脅してやったら奴も青くなるだろうと思いました。銃は空砲です!!

そう決めて私が中へ飛び込んで銃を片手に引き返そうとしたら、、いきなり二階から凄い音がしてリーおばさんが叫びながら窓を叩いています。それを聞いた強盗は一目散で私のウインチェスターを拝む前に退散してしまいました。おばさんは私が襲われているのが分かって手助けしてくれたのでした。感謝です。

今一度はやはりブリーカーストリートでミッドナイトに十五〜六歳の若い連中が反対側の歩道に居たのを私を認めてこちらにわたってきました。これはやばい奴らは六〜七人もいて、わたしの後ろから早足で近づいてきて私を捕まえにかかってきました!!瞬間にこのままでは奴らにやられる、やられる前に何とかしなければいけない、そう考えた私は奴らに自分から飛び込む事にしました!!

わたしは足を止めて、いきなり振り返りました、奴らとは目と鼻の先でした。

「、、、、なんだよッ、、」

奴らは何も言いません、ただ黙ってこっちがびびるのを待ってるようでした。このクソッタレガキ共があとか思いながらも暴力を知らない私には何も出来ません。ですから思いっきり強勢を張っておもむろにタバコを出して火をつけました。その手が震えてはいないかと心配でしたが何とか大丈夫でした。それからブワーッと煙りを奴らに吹きかけてから、、背中を見せるわけにも行かないので、

「どけッ、、、じゃまだよう、、、」

とかつぶやきながらわざと奴らの真ん中に入っていって、そのままスタスタとわたしは歩きさりました!!奴らは追ってはこずに無事に済んだのですが困った事に私のロフトとは反対方向になってしまっているのでした。どじな一幕です。

 

ユミ

わたし35歳になり、インド以来の頭つるつるのままにいい気になって禅の教えを仲間に吹聴していました。バイト先のオーナーのえらい歳の離れた若い嫁(二十一歳)がユミです。オーナーはフライデイナイトになるとわたしに、うちの嫁をビレッジのジャズキャバレーに連れて行ってくれないかといいます。自分はどうもああいうところは苦手だからとも。

「いいですよオーナー、、オッケイ、、レッツゴウ、、、ユミッ」

何度かこんな風に遊んでやっていたのですが、ある日に顔を腫れ上がらせてわたしのロフトにユミがやってきました。だんなに殴られたのだといいます。見るも無残にいくつもの青あざをかわいい顔面につけていました。この時はなだめて帰したのですが、数日してまたもやって来たのです顔面の青あざは紫に変わって血がにじみ出るかと思えるほどに腫れ上がっていました。泣きながらユミがわたしに訴えました。

「もう、、、あの家に帰りたくない、、殺されちゃう!!トミさん助けて、、ここにいさせて」

これにはまたもまいったなあでした、、、このままでは本当に殺されちゃうかもしれないというユミの言い草も当たらずとも遠からづだったでしょう。ユミはだんなと別れたいといいます。だったら仕方もないから日本で入れた籍が抜けるまでここにいるかということになりました。オーナーもユミが私のところえと逃げ込んだのは分かっているから電話してきます。

「、、、、うちの嫁行ってますか?」

「ああー来てますよ、、、ハイッ、、ユミ電話だ」

ロフトのベッドに一緒に寝ていたユミに電話機を渡します!!こうして一年余りをかけてようやくにユミはこのオーナーと離婚できました。そしてしばらくしたら、わたしのロフトに来てからバイトに行っていたソーホーのレストランのウエイターと手に手を取ってカリフォルニアはロスアンゼルスへと夜逃げをしました!!そうなってはじめてわたしの単細胞ノー天気な頭が回転をし始めて得た答えは。どうもユミは歳の離れたこのオーナーに請われて日本で結婚をしてきたのでしたが、要するにアメリカに来たかっただけなのかもしれません。そのためにオーナーを利用したのかも。だとしたら早々に仲たがいが起きるのもあたりまえの事で、さてユミがこのオーナーと別れて自由になりたいと思ったときにうまく利用されたのが私ということになります。二年余りをかけたNYで無事に全てをクリアーした彼女は晴れて歳の近い若いウエイターに恋をして太陽の下の新天地ロスへと逃避行してハッピーエンドと言うことになります!!

{この時から十五年が過ぎてわたしがバンコクでレストランマネジャーをしているときのオーナーがかつてロスでもレストランをやっていたことがあってどうもこのユミをバイトで使っていたことがあるようでした。それによると、体の不自由な子供を持って苦労していたとのことでした!!(幸と狂の偶然)}

 

池田満寿夫とイサム野口

絵描き仲間がロングアイランドのイーストハンプトンにある池田満寿夫邸を訪ねようといってきました。華やかな恋を演じながらNY画壇からデビューした彼はこの時には中国人のアーティストと共に創作をしていました。マンハッタンから三〜四時間のドライブでたどり着いた高級別荘地は豊かな林の中にありました。彼は我々をにこやかに迎え入れてくれてガーデンで、、

「ぼくの作るハンバーガーは自慢の一品ですよ」

といいながら焼いてくれました。この家は不思議な事に全てが六角形で出来ています!!どこの角にも九十度がないのです、私が不思議そうに見ていたら彼が言いました。

「この家はね友人のアメリカンの建築家に頼んだんですよ。ぼくは何もいわない、、、君の好きな家を作ってくれって、、ね。そうしたらこの家が出来てたって訳なの。どう、面白いでしょう!!」

屈託ない彼の言動は第一線で活躍しているプロの自信に溢れていました。しばらくしたらそこえ偶然にやはり近くに住んでいるという巨匠イサム野口が鋭い鷹のような目をにこりともさせずに訪ねてきました。巨匠たちが相集うという感じでした。帰り際には池田満寿夫が私に彼の本にサインをしてプレゼントしてくれました。

アメリカにいてプロのアーティストを目指す私でしたが、その行きつく先には彼らのように成功者が競って別荘を建てるこのイーストハンプトンに私も家を持つのだとは、とても思えませんでした!!そこまでの才能はないのだと私は自分を見切っていたのかもしれません。

 

島崎コーポレーション

アートリーグ時代からこの時にかけて私の唯一の作品の理解者が、島崎コーポレーションの島崎社長でした。彼は人に紹介されて数年前にリーグのスタジオに創作中の私を訪ねてくれました。それからは年に二〜三度は作品を買い上げてくれていました。彼の会社はセントラルパークウエストサイドの入り口に当たるコロンブスサークルナンバー1というビルの二十数階のワンフロアーを借り切っている商社です。そこのロビーから通路は私の作品で埋められていました。また私の大作畳二畳に近い(青い命)は彼のニュージャージーの邸宅に飾られていました。私がロフトで創作を始めてからも時々は作品を見に来てくれていて、あるとき島崎社長は言いました。

「トミザワさん、あなたのNYでのデビュー展を、、、どうでしょうか私に任せてはもらえないだろうか」

多分彼はすでに私を六年余りも見ていて、そろそろ世に売り出す時期ではないか、だったら自分が手助けしてやりたいものだと思ってくれたのでしょうか。これはきっと私のこれからの創作活動を容易にしてくれる願ってもないビッグチャンスだったはづです。なのに単細胞で創作に関しては高慢ちきだったこの時の私は、、この彼の言葉を受け入れなかったのです。その第一の理由はここはアメリカであって私のアメリカ画壇デビュー展は当然アメリカ人の画廊主催で行われるものだと頭から信じていた私がいたからです。その事を彼に説明して、

[ですから、、、島崎社長がここの作品を全部買い上げてからなら、自由に何でもしていただいて結構ですが、、!!」

なんという傲慢な、、私の態度だった事でしょう、、。この頃のわたしはインド以来の禅定の影響もあって、すでに人間を操る源が肉体を離れてある事を自覚している自分を、ブッダの化身か、、ピカソの再来かというぐらいに、、果てもなく有頂天になってしまっていたのです。

「まあ、全部買い上げるというわけにも行かないですね、トミザワサン。、、、うーん残念ですな」

こうしてくるべくしてきたような私にとっての幸運を私は自らの自我に踊らされて無きものにしてしまいました。このことをはっきり悟るまでにはまだ数年の時が私には必要でした!!

 

イースト&ウエスト展 by ワールドトレードセンターNY

この頃の私は日本の美術手帳とかいくつかの美術誌にNYでの新進若手アーティストとしてのインタビューを受けてそれら雑誌に何度か載るようになっていました。ロフトには渾身の大作が所狭しと壁に幾重にも立てかけられています。創作はとどまることなく精力的に進められていました。こんなときにイースト&ウエスト展がアメリカそして日本のそうそうたるアーティストを集めてワールドトレードセンターの二階メザニンで開かれる事になりました。日本からは当然イサム野口や池田満寿夫、篠原ウシオ等の一流が出品する事になっていました。ところが私のビレッジのロフトにこのビッグイベントのキューレター(作品の目利き)だという女性が尋ねてきたのです。彼女が言うにはこのショーには何人かの新人の作品展示も予定しているのだと。壁に立てかけたいくつかの作品を見ながら、彼女がつぶやきます。

「この中で、アナタが一番推薦するのはどの作品ですか?」

ですからわたしは、、、北緯何度、西経何度、、、と題名をつけた作品を推薦しました。これは大画面にジェソ(キャンバスの下地)を充分に垂れ流して寒い凍えるNYの気候で凍らせたものです。その結果このジェソはシュリンクして無数の亀裂を生み出していました。この自然発生オブジェ的な表面がが私はスキでしたからいくつもの作品にこのテクニックを応用していました。キューレターは、、この作品の意味するところはと聞いてきましたから。

「この画面には二本のラインが交差していますが、例えばこの交点は大地のどこであっても良いものです。しかし画面の亀裂は大地を意味してキャンバスを多い尽くしているでしょう。ここに鋭利に引かれたこの二本のラインはどこに走っても同じ事なのです。つまり一切の無常観を表したかったのですが」

私はこのように応えました、彼女はしばらく考え込んでしまいました。一体、、このトミザワと言う若い作家を、その作品をワールドトレードセンターにインバイトして良いものかどうか、その判断に窮してしまったようでした。

「トミザワ、、、わたしは独りで少し外を歩いて考えてみたいが時間をくれますか?」

「オブコース、、、どうぞゆっくり考えてきてください」

こうして彼女をロフトから一旦送り出したのですが、、、この時の彼女の心境は、、察するところ、私の作風が余りにもアメリカ的ではなくて、、私独特のもの、、つまり一般のアメリカンにはなじめない作風ではないのかと悩んだのだと思います。しかしまた彼女を悩ますものはこの作品の緻密さや完成度は非常に高いものだと感じるからこそ、、、答えが出なくなってしまったのでしょう。この以前にアートリーグのスタジオに五年通ったわたしでしたが、、ついぞ彼らアメリカンの色合いや作風を一度たりとも私は真似たことがなかったのです。つまり余りにもオリエンタル的であり、、余りにもわたしの自我に覆われているものでした。

このアメリカにわたしがやって来たのは二四歳のときです、この時はもう三十五歳、、すでに十一年が過ぎていました!!わたしはこれが正念場の登竜門だと感じていました。このキューレターに選ばれて晴れてイサム野口らとの作品と共にわたしの作品が並べられる事を強く願いました。成るか成らぬかは今外を独り歩いて考えているあのキューレターの胸三寸という事になります。三〜四十分もしてようやくに帰ってきた彼女でした。

「、、、、OK、、トミザワ、、この作品を出展していただけますか」

「もちろんです、、ありがとうございました、、、」

わたしは天にも登る気持ちで彼女の声を聞いていました。展示会は広大なスペースを割いて大々的に行われました。この時にトップと称されるアメリカと日本の一流が顔をそろえているのです。ましてや、アメリカのシンボルといっても過言ではないワールドトレードセンターのメザニンなのです。そこに始めて私の作品が世間にお披露目されたのでした。しかし、この思い出の場所は同時テロによって崩壊してしまいました。

 

アメリカ画壇

この頃のダウンタウンソーホーは見事にアーティストの街として蘇っていました。一流の画廊が広大なロフトを利用して軒を並べていました。わたしは十五年間追い続けた美学探求に一つのけじめを見ました!!ですから、いよいよプロになるべくデビューする為に画廊を回り始めたのです。ところが彼らの言い分は、わたしを絶句させるものでした!!

「これは作品としては完成している、、だけど、どうしてこの色合い、このキャンバスの表面処理で十年近くもこのNYでこの作風を維持してきたのか、、分からない!!ここはアメリカであってNYだから、ここで受け入れられる作風というものがあるが、君はそれを一切無視して君だけの作風を誇示してきたようだ。凄い精神力だし緻密な技法だ。しかし、これはNYでは受け入れられないだろう。君はドイツに行くべきだよ。ルフトハンザならこの作品を頭から受け入れられるだろう。」

いくつかの画廊がこれと同じことを言いました。そしてただにひとつの画廊が三人展を企画しているがその一人としてなら発表しないでもないがどうだといってきました。せめてそれを足がかりとして出発点に立てばいいものを、この時のわたしはこれをも蹴りました!!頭の中は、とにかくアメリカでは受け入れられないという言葉だけがグルグル走馬灯のようにして巡っていたのです。

十五年間のツッパリが一気に崩れ去りました、、、、この日のためにと追い続けた全てでした。わたしの心は引き裂かれて悲鳴を上げています。しかし、こうなる事の要因は私自身が作ってきたものでした。なぜならわたしははじめからアメリカという国に興味はなかったのです。あるとしたらそれは初めからヨーロッパの国々でした。なのになぜ、そんなわたしがアメリカに来てしかも十数年もいてしまったのかというと。東京で美校を終えたときに次の美術専門校に行く為にわたしは待機していたのですが、その時に友人にアメリカにいる兄のやってる仕事を半年間だけ手伝ってくれないかと誘われたのです。当然アメリカに興味はないからとわたしは断ったのですが、これがどうしてもとあきらめない友人でした。そしていつもの例のように、頼まれ続けるとしまいには嫌と言えなくなってしまう優柔不断な私がいたのです。結果シスコで数年美校に通ってみるのもいいかなとか自分に言い聞かせて、仕方なくわたしは1969年に渡米したのです。

結果としていついてしまったアメリカですがそんな理由がはじめからあったものですからわたしはアメリカ自身には染まる事はありえなかったのです。よってアートリーグに入学してからも一切アメリカを無視してわたしは自分だけの色合いに染まり続けて独自の作風を作り上げてきたのでした。同じ東洋人の島崎コーポレーションの社長はそんなわたしの作品を認めてくれました。またイーストウエスト展のキューレターの女性にしても、考え込みながらも作品としての完成度を評価したからわたしを招待してくれたのでしょう。

だからと言って、プロになるということは売れる作品が必衰条件です。その流通経路にはこのアメリカでわたしの作品が載れないというなら、勝手にしやがれでした!!わたしは二度と筆は持たないと誓いました。要因はわたしが少なからず作ってきたとはいえ、わたしの青春の全てのエネルギーを注ぎ込んできた作品を受け入れられない、その売り買い対象としてだけの画廊の作品の見かたにわたしは激怒してから失望したのです。わたしは自分の青春がここに崩れ去り終わったと自覚しました。二十四歳でアメリカにわたりこの時わたしは三十七歳になっていました。

五年前のパリ行きのときとおなじにわたしは完全に自己を喪失してしまいました。以前は恋人に振られての自己喪失であって創作意欲は残っていたのですが、今回は無残でした、、、何も生きる目標がなくなってしまったのですから。これから脱皮するのは容易ではないと考えました。このままNYにいたらただの負け犬の廃人になってしまうだろう。それは避けたい。だったらアメリカを捨てるか、、、捨てて、どこえ行こうって言うんだ、、、、!!

ヒマラヤか!!エメラルドグリーンの氷河湖を見に行くか、、、ヒマラヤエベレスト街道の五千メートルの稜線を二ヶ月歩いてみるか!!今までに一度だってまともに山歩きしたことのないオイラがかい?、、、ふんッ、、、このさいだ、、何もなくなってしまったんだ、頭を冷やすにはそれくらいの限界が必要だろう。

この時にどうしてヒマラヤが頭によぎって湧いてきたかというと五年前の地球行脚のときに出会った何人もの西洋人バックパッカーが言っていたのです。ヒマラヤに行ったら強烈なバイブレイションを感じて神に合えると!!またある旅人は、ヒマラヤ五千の氷河湖を見て人生観が変わったと。インドを旅しているときに聞いたたこれ等の言葉でした。旅人たちの最後の憩いの場ヒマラヤのふもとネパールのカトマンドーにも魅力をわたしは感じていたのです。初めての山歩きにエベレスト街道とは、、危険だろう、、死ぬかもしれない!!だけど、よしんば死んだとしてももしそれがわたしの現実なら運命です、受け入れればいいでしょう。でもわたしには、この時の思考に死の影はまったく感じられませんでした。また手元にあるインドの哲人の本には、、、神様に会いたければヒマラヤに行けばいいさ、きっと会えるよ、、だけどその感動を市場の中で生かすことは至難の技さ、、、と書いてありました!!

それではNYでなまってしまっているこの体を鍛える為にインドの南のはずれにあるコバラムのヒッピービーチ、ここへといって最低一ヶ月は毎日泳いで体を鍛えようか、それからゆっくりインドを列車で縦断してネパールのカトマンドーへと入り山へ入る準備と情報を集める。しかしこの時にはわたしは蓄えは少ししかなかったのです。この旅は徹底して貧乏ヒッピー旅行になる覚悟でした。

このことをお世話になった島崎社長に話しました。

「そうですか、また旅に出ますか。今度はヒマラヤ行脚ですか、気をつけて行ってきてください作品は帰ってきて冨澤さんがまた創作に入るときまで預からせていただきます」

「いえ、島崎社長わたしはもう創作をやめたんです二度と描きません」

しかし彼は断固として、、決して私が創作をやめることはないと言い切っていました。その言葉をわたしは遠い国から来た異星人の言葉のようにして聞いていました。なぜなら、私のこの言葉が確固たるものだという事を私自身が一番よく知っていたからです。それがどういうことを意味するのか、一体わたしは分かっていたのでしょうか?自ら負け犬、敗残兵としての余生しか残されない事をわたしは自覚していたのでしょうか?われながら信じがたい決意でした!!

わたしはあらゆる私物の整理にかかりました。この時友人のヒロシが手伝っていたのですが、彼はわたしが捨てると言い張った今まで二十年間の長大な枚数の写真集をぺらぺらとめくっていましたが急に素っ頓狂な声を張り上げました。

「これって、、心霊写真だよ、、トミさん。ホラこの十九年前に阿蘇で撮ったって奴さ。スゲーヤ、、これもだ、これもだよ!!」

その写真はわたしが十八歳の時に友人のサカエと二人で横須賀から南日本一周のフーテンキャンプドライブに出かけたときに阿蘇の雄大な草原に張ったテントとかその周りの潅木が写っているものでした。なるほど言われてみれば、、、確かに子供の顔が木の枝の中にはっきりと写っていました。何人もの子供たちが幾枚かの写真に確認されたのです!!どうして今まで気が付かなかったのかと思いましたが、多分ヒロシは霊たちに対して敏感な奴だから見抜けたのかもしれません。それにしてもどうしてわたしのキャメラにこの子達は入ってきたのでしょうかこの阿蘇で不幸の死に会って成仏できないでいたのかも知れません。わたしには心で成仏しなさいねと祈るしか出来ません。

「どうする、トミさんこれは取っとく?」

「いや,要らん、、全部捨てる!!」

この時わたしはもうこの街へは、NYへは、アメリカへは帰ってこない覚悟でいましたから、一切ここに残しておく気にはなれませんでした。私のこの、旅立ちの支度を聞いたジャズピアニストのコスモが言いました。

「アタシ、トミさんと一緒にインドとかヒマラヤ行ってみたいなあ、、いいトミさん?」

「、、!!良かないよ、、オイラの旅はいつも一人だよコスモ。人と楽しく行ったら旅にはならない。遊びに行くんじゃあないんだ」

それでもすでに固い決心をしたらしい長い友人のコスモは後へは引こうとしませんでした。

「だったら、コスモはコスモで勝手に来れば良いだろう、、そして旅先のカトマンドーとかで偶然に出会うなら少しの間なら一緒に歩いてもいいけど、ここから一緒に連れ立って行くなんてことは有り得ないよ」

私にとってコスモとかサチコとかヒロコは妹みたいにして付き合ってきているから気心は知れているのですが、かといって一緒の旅立ちはとても考えられる事では有りませんでした。この時にわたしはイーストビレッジにいる旅人が二度目のインドへと近いうちにやはり旅立つといっているのを思い出しました。だったら奴にコスモと一緒にカトマンドーへといってくれないか聞いてみようかと提案したら、コスモ最初は渋っていたけれどわたしが絶対にOK出さないのを知って、とにかく会ってみようかという事になりました。

その旅人も別に会ってもいいよと言うから彼の部屋を訪ねたら、部屋中マリファナの煙で充満していました。そこでどうだろうこのコスモをネパールまで一緒に連れて行ってはくれないかいと聞いてみました。彼は満面笑みで、こんな美人の素敵な女性と旅できるなんて信じられませんね僕は全然OKですよ、、アナタが、コスモさんがいいのなら。とこう来ましたから、そうだってよ、、コスモどうする連れて行ってもらうかいと聞いたら、、、、これまた、よろしくお願いしますと来ました。だったら俺はまずインドへと入って南のコバラムで一ヶ月体を鍛えてからネパールを目指すから四〜五ヶ月後にカトマンドーでうまく縁があったなら会おう、ということになりました。

 

オッカー

わたしのNYでの精神的保護者のオッカー、、、彼女はマンハッタンで一番うまいと評判の焼肉店舞夢(マイム)のオーナーであり同名のピアノバーもやっていました。わたしはその店でバーテンのバイトも長かったのですが連日連夜の仕事に追われてとうとうオッカーは倒れてしまって入院したのですが、退院してきて言うには。二度とハードな立ち仕事はしてはいけないとドクターに言われたといいます。彼女は店を畳みました!!そして静かに療養中だったのです。わたしは旅立ちの挨拶に行きました。先回は地球一周してしまったけど今回は的を絞ってあくまでもメインはヒマラヤ行脚だと、だけどその前にはインドのヒッピービーチで一ヶ月毎日泳いで体を鍛えると。そうオッカーに話しているうちにわたしはオッカーをインドへと引っ張り出したい欲望に駆られました!!

「そうだ、、、オッカーは今療養中だろう、だったら俺が浜にいる間に一週間ぐらいインドへと遊びにこいよ。こんなマンハッタンにいたって体なんか良くなりはしないよ。オッカー、、インドってのはスゲーんだよ雑菌だらけだ。NYの雑菌なんてたちまちぜーんぶやられちまうさあ」

こうまくし立てたものでしたが、わたしのインドでの話はもうすでに耳にタコが出来るほどに私`から聞かされていたオッカーでした。先回の旅の間中も手紙を書き続けていましたから。ましてや先回の地球行脚の原因となったタカコ失恋劇は全てオッカーの知るところだったのです!!このわたしのとんでもない言い分のインド勧誘に、、事もあろうか、、、オッカーが感触を示したのです!!

「何か、とってもおっかなそうだけど、、トミの話を聞いてると、チョット行ってもいいかなって気になりそうだわねえ、、、、」

「そうだ、、そうだ、、オッカーその意気だー、、インドへ行ってゲンキになっちゃおうぜえ、、、」

わたしははしゃいでいました。旅先で良い友人に少しの間会えるならこれは歓迎なのです。とにかくオッカーは一人ではいけないからボディーガードにミサコ(女傑会計士)でも誘って彼女がいいって言うなら考えてみるという事になりました。まさかの提案が現実味を帯びてきてしまった事にわたしのほうが驚いてしまったのですが。この時のオッカーは多分断崖に立たされていたのでしょう。生きる手立てをなくしてしまったのですから。その意味では筆を折ったわたしと精神状態は似たところが有ったと思います。

 

インド コバラムビーチ

1981年

今回二度目になるインドはとりあえず空路マドラスへと入りました。時間は充分にあるのです、二〜三日広大な浜に遊んでみました。なぜかというに明日の目的がなくなってしまったのですから、、、一日二ドルの最低ラインの旅を続けるなら一年は放浪できる計算でした。浜に独り禅定していたら日本人の若い男女七〜八人のグループがやってきました!!彼らは日本のヨガ道場の先生と生徒であってこの地に本場のヨガの研修に来たとのことです。オジンのわたしが独りでこんなところで禅を組んでいるのを見て彼らは非常な興味を持ったようでした。中でも若い女性群の一人はしまいには私と一緒に旅したいとか言い出して引率の先生は怖い顔をしだしました。翌日にまたこの浜に顔を出したらグループの行動が乱れると思って、触らぬ神にたたりなしとかつぶやきながら早朝にわたしはザックを担いで南へと下っていきました。

列車を下りてここからコバラムの浜へはリキシャー(ダイハツミゼットが原型の軽三輪車)かバスがあるというからそのバスを待っていたら十歳位のボーイが、どこに行くのかと聞いてきたから、コバラムノ浜だと応えると、自分もそこに行くから案内してやるといいます。別に案内は要らんよ一人で行けるからといったのですが、勝手についてきてるからそのままにしておきました。五十分も走って下ろされたところは木々が茂った高台の道路上でした。この左手の崖を下ったところがコバラムの浜だといいます。この崖の上突き当りにはコバラムホテルといって超一流ホテルがあるようでした。もしもオッカーたちが来るのならそこのホテルに泊めればいいだろうと思いました。

インドは凄いところなのです。超高級から最下級までが渾然としてそこに見えてあるのですから!!

木々の間を抜けながら崖を下るとそこには静かな入り江が椰子の木に囲まれてありました。ここには電気もなく建物もやしで作った平屋で粗末なものでした。まったくにわたしにうってつけの浜です。最低の料金で浜辺の宿を決めました豪快に海が寝ていても見える一等地です!!夜の明かりはキャンドル、シャワーは裏庭でバケツで行水です。マンハッタンからいきなりここへと飛んできて時間は二千年も前にタイムスリップしたような感覚に襲われます。ここは西洋人バックパッカーたちが見つけたヒッピーたちの憩いの浜なのです。この浜を歩く西洋人女性バックパッカーたちはブラをつけません、誰もがおっぱいを丸出しで浜を闊歩しています。わたしは朝から泳いでは飯、昼寝してはまた泳ぐという優雅な日常を送り出しました。したらある朝早くにここへ来るときにバスで一緒になったボーイがやってきて何くれと勝手に身の回りの世話を焼きだしたのです。なんなおかしな親切なボーイだとか眺めていたら、わたしが横になってる傍らに来て色っぽい目でわたしを見下ろすのです、、、!?ナンだ、こいつはおかしいぞおとか思ったら、ボーイが言いました。

「おじさん、、オイラを買ってくれる、、」

飛び上がるほどに驚いたわたしです。冗談ではない、俺にはそういう趣味はないからと追い出しました。どうも最初からそのつもりでいたのかと寒くなりました。

コバラムの浜は両脇をシッカリと岩山の岬が囲むようにしてあって天然の良港を形作っていました。ここには古代から綿々と続いてきたろうと思える椰子の木で作った丸太船が漁の主流なのです。それと豪快な地引網でした。ここにはファイバーグラスの素敵な白いボートとかとは無縁な時間の楽園なのです。上の写真左三枚がコバラムの浜の全景ですが、右二枚の写真は崖の上に優雅にそびえるコバラムホテルのプールサイドからのラウンドスケープです。このホテルはNYのヒルトンクラスでここに一泊するだけで私の一ヶ月の旅費が出てしまいます!!

 

日本人バックパッカー

毎朝の日課になっているこの浜の右から左の岸壁までゆっくり時間をかけて泳ぎ、帰りに波打ち際を歩いていたら、向こうからカメラを胸に下げた日本人らしい青年が歩いてきました。彼はいきなり写真とっていいですかといいながら立て続けにシャッターを切っていました!!珍しくわたしとちがって人見知りしない日本人カメラマンでした。

「いきなりすいませーん、、、俺、写真やってる田中って言います。朝の散歩ですかア、、」」

「あ、、、、こんちは、、、俺、、トミ!!」

それからは、あっちに一人こっちに二人と日本人の旅人が5〜6人もこの浜に集まってきました。自分探しや、学究肌、いろんな目的を持って彼らはインドを放浪していました。この浜では思いっきりガンチャを吸って、、毎日の夕暮れ時には誰もが砂浜に出て座り込みインドで一番美しいとされている雲ひとつない群青の空から真っ赤に映えて沈んでいく夕日を眺めるのです。この時間帯は浜全体が燃え落ちる夕日によってトリップします。日々の自然発生的な旅人合同メディテイションに等しいものでした。この地では満月の日は休日です!!風が起こり海が膨れて気が満ちて自然が荒くなるこの満月は人々にとっては反対に静観という自然発生的なバランスが保たれているのです。こんな美しいリズムがアメリカに日本にありますか、、、ありようはづもありませんね。タイムイズマネー、時は金なりとかいって働き詰めなければ家賃も食事も出来ないのが現状でしょう。ときには息抜きが必要です。

毎日浜にいるとよく分かるのです。満月が近づいてくると風の動きに力が増してくるのが。そして海は命をはらんで拡張してきます。母親の胎内の命はこの日に向かって生まれ出る日を自然に調整します。地球と月が育む絶妙なバランスの内に我々人間もあります。通常我々が住む都会の大地は果てもなくコンクリートで覆われていますが、これで大地が呼吸できるわけがないのです。ましてや都会では世界中の食べ物が進んだ流通手段によって短時間で国から国へと運ばれて食べられますが、これ等高級な美食をする人たちは大いに自然の摂理に反して体を病んでしまいます!!食事の美しい鉄則とは、、、その土地で取れたものをその日の内に調理していただくというのが一番自然なのですが、都会人たちは冷蔵庫とか言うものに食料を入れて無理に保管して、すでに命なくしているものをありがたがって食べています。これ等都会人の病を治すために医学が発達して、スポーツクラブが繁盛してと、連鎖的にビジネスが起こってきます!!たくさんの便利な電気機器を作って我々の生活自体を堕落させた張本人はあの松下幸之助ではないかと、ある位のある高僧が、ある集まりで、当人松下幸之助を前にして言ったそうです。また、、、一体その責任はどう取る積もりかね?、、、とも!!それに対して松下幸之助は黙して応えなかったと言われていますが、彼は世界にまたがるたくさんの奨学金で若者の学びを助けたり(NYではダンサーサチコたちもこの奨学金制度で何度も公演を開催していました)またこの地インドのブッダの聖地ブダガヤの日本寺の見事な鐘楼は松下幸之助寄贈と大釣鐘には彫られていました!!こういうかたちで彼は、この高僧の問いかけに、、、実践で応えていたのではとわたしは勝手に解釈しています。

コバラムの浜には電気がなくて(崖の上には来ているのです。ここにはホテルがありまたカーストの位が上の人たちが住んでいるのです)まったく調理は裏の畑で取れたものと目の前の海の幸、これ等をその日の内にいただくという、インド最下層の人たちが最も贅沢な自然に叶った食事をしているわけです。このパラドックスを目の前に突きつけられてしまうのが我々バックパッカーの旅なのです。それでも朝に取れた魚を夜に食べる為には浜の食堂でも保存をするのですが、それは裏の砂地に穴を掘ってそこにわらを入れて魚を包み夜までは保存します。砂地の下二十センチには太陽の熱も通らないようです。

浜辺の食堂は我々の集会場であり情報収集場であり一切酒類のない宴会場なのです。酒と肉はホテルか高級中華レストランに行けばあるのですが、そんなものは一日二ドルの予算の旅人には縁がないものということになります。

カメラマンの田中君は若いのにこれで三度目のインドだそうでした。家が写真館で長男の彼は親からこの仕事を継げといわれているらしいのですが、彼は余り気乗りがしないといいます。ですからインドへ旅に出させてくれたら自分の写真を取れるから、そしたら家の仕事を継ぐ気になるかもしれないと、親のすねかじりでの旅でした。旅先でお金がなくなればいつでも送ってくれるといいます!!

「コラーッ、、、田中ーッ、親に甘ったれて旅してんじゃあねえよ。このやろう、、。でもいいよな、それって、、、最高ジャン、、」

とか、わたしはのたまわっていました。なぜなら、わたしの場合は両親は二十歳のときに他界していましたから東京、シスコ、NYでの合わせて十年間の美学校の月謝は全部自分で働いて稼ぎ出したものだったからです。この旅にしても一切自分の器量でやっているのです。ましてやわたしには帰る家までも今はなくしてしまっているのでした。まったくの土壇場での悲壮感漂ってあたりまえの旅でした。この旅が終えたら、、一体私はどこに行こうとしているのだろう。アメリカに帰る気はない。かといって故国日本へと負け犬の面下げたままではとても帰れない。だとしたら行くところがないのがこの時の現実でした。だから田中君の話には私はジェラシーしたのでしょう。帰る家も有り待ってる両親もいて仕事まである、、、なんという恵まれた環境かと私にしてみたら思ってしまうのですが、田中君にとっては重荷のようでした。世の中ままならないというところです。

 

原住民の帆かけ丸太舟

コバラムの浜では家も船も生活に必要なものは全てが椰子の木から作られます。家の柱は椰子の木そのままに壁と屋根はやしの葉で葺きます。必要な縄は椰子のみを水につけてふやかしてから乾かして、今度は叩きます。そしたら細かい強い繊維になりますからこれを縄に編むのです。極めつけは漁に出る丸木船です。したの写真に有るように六〜七本の椰子を結わえ付けていかだにしています。ですから隙間からはあたりまえに海水が入ってくるのです。半分海に潜っているようなものですからある意味では安定があります。これをこいで沖に出る人もいれば、これに帆を立てて帆走する猟師もいます。彼らの飲み水は決まってご飯を炊いたときに出る沸かし湯です。これを船に積んでいきます。なぜならインドご飯の炊き方は日本とは違っていて大量の水に米を入れて煮込み適当なところで救い上げるのです。ですから大量の白い沸かし湯が残ります。この栄養価の高い飲み物を漁の間に飲むのです。わたしは帆かけ船に非常な興味を持っていたから一日彼らと一緒に沖へと帆走してもらいました。要するに棒を船体の隙間に差し込んで帆をつるすのですが、これでうまく走りますが、しかしターンは出来ないのです!!どうするのかと思ったら、なんとこの帆のポールを根こそぎ引き抜いては反対側に差し込むのでした。ですからまっすぐ沖に出て、そのまま船の向きをかえづにバックしてくるわけです!!考えてみればこの丸き船は前も後ろもおなじですから問題ないのです。なんという原始的な発想のままに今にして使われていることかとわたしは驚きました。

この丸木船は通常二人で漁に出ます。毎朝早くに数十隻の丸木船が沖に向かって船出する様は非常に豪快でした。わたしは毎朝この光景を眺めるのを楽しみにしていました。浜辺では総出で地引網です。回遊しているたくさんの魚が浜に上がってはにぎやかになります。それを横目に見ながら私はシュノーケリングをしに岸壁の下へと出かけます。ここに数百、数千という小魚がもぐったわたしの頭上をそれは優雅にまるでサチコたちの舞台のようにして舞ってくれるのです。照明は太陽光が木漏れ日となって海中に降り注ぎ小魚たちを浮き彫りにさせてくれます。わたしはあきもせずに彼らと遊びます。また時には高級コバラムホテルのプライベートビーチに行ってディンギーのヨットをレンタルして一人沖に出ては風と戯れます。ヨットは相模湾と東京湾で私は四〜五年やっていましたから!!たまには無駄使いをしました。つまりひとつの丘の両脇にコバラムホテルを頂点として古代のテクノロジーの丸き船と、現代のテクノロジーのファイバーグラスのヨットがあるのですから、信じがたいカースト制度の形がここにも現れていると思うしかありません。

 

オッカー

いよいよNYからオッカーがミサコに支えられながらコバラムのヒッピービーチへと来る事になりました。わたしは仲間のバックパッカーたちにNYからオイラの姉御が来るからヨロシク歓迎してやってくれと吹聴していました。崖の上の一流コバラムホテルには私が出向いて部屋のチェックをしてベランダの真っ赤なブーゲンビリアが一番見事な奴を選んで予約を入れました。まさかのまさかです、、NYの女傑マダムオッカーがここまで来る決心をしたのです、私は出来る限りの歓待をしなければなりません。NYから空路ヨーロッパへと飛んでからトランジットしてインドへと入り国内線でマドラスまで来てから列車に乗るのです。とっても大変な事です、二日がかりの移動でオッカーとミサコは無事に列車から降り立ってきました、感動でした!!

「いらっしゃい、、オッカー、、ミサコ」

「来たわよートミッ、、、」

オッカーは思ったより元気で顔を紅潮させて子供みたいに目をきらきらさせていました。さっそくリキシャーと交渉してみんなで乗り込みました。イザ、コバラムのホテルへと。NYと変わらない内容のホテルにオッカーは安心してまた見晴らしのいい部屋も見事に気に入ってもらえました。とりあえず汗を流そうと交代でシャワーに入り、、トミも入ったらというから、この旅に出て以来浜で行水しかしていない垢だらけのわたしでした。ホンじゃあまあ、、豪快なバスタブとやらに久々に浸かってみるかなと湯を引いて満杯にして思いっきりエンジョイしてああさっぱりしたよとか行って出てきたら、その後に用足しに入ったミサコが悲鳴をあげました!!

「トミさん、、、これなにーッ、、、うわあーッ、、、」

何ごとかと思ってバスルームに飛んでいってみたら、、バスタブが、、、真っ白なはずのバスタブがめちゃくちゃに黒ずんだ灰色の斑点で埋め尽くされているのでした!!なにがなんだかさっぱり分かりません、、、どうしたんだろうさっきまで真っ白だったのに。そこえオッカーが顔を出しました。

「これって、、、トミちゃんの垢なんじゃあないかしら、、」

言われてみたらまともにビーチでこの一ヶ月間石鹸なんか使ってないから私の体には凄い垢がこびりついていた事になります。

「スゲーねえ、、、これ全部俺の垢、、、、きったねえ、、、」

これが電気もないところに生活するわたしの現実でした。一息ついてから皆で崖下のわたしのグランドホーム、ヒッピービーチへと歩いて降りていきました。いきなり道路は赤土の溝だらけになりまともに足場も確保できないような危険な状況です。体の大きい丈夫なミサコとわたしでオッカーをかかえるように保護して注意深く歩を運びます。椰子の林を抜けたらそこはもう浜です。

「ホラ、、オッカー、ここがヒッピービーチだ。外人の女の子はみんなおっぱい出して歩いてるだろう、ここじゃあこれが普通だよ。電気はこの浜へは来ていないから、お湯のシャワーなんてものもない。崖の上のホテルと下では天国と地獄の違いがあるよな。だけどここが問題だよオッカー、、俺たちバックパッカーにとっちゃあこの浜のほうが天国なんだぜ。なぜってほとんどお金を気にしないでいいからさ。オッカーのホテルの一泊代金で俺たちは一ヶ月この浜でだったら過ごせるよ」

「、、、そうね、、トミちゃんには出来るみたいだけど、私には無理だわねえ」

溜まり場の浜の食堂には仲間が集まっていました。仲間といってもみんなはわたしより十も二十も年下です!!通常のバックパッカーというのはだいたい二十歳から二十五歳ぐらいなのですが、わたしは二度目のインドのこの時には三十七歳になっていましたから、彼らにとっては変なおじさんなのです。若いときに世界を放浪して三十歳を過ぎたら自分の大道を闊歩していてこんなところにはやってこないのが普通でしょう。しかしわたしの場合は前に書いたようにこの歳で道をなくしてしまったのですから、どじというしかありません。

「オーイ、NYから俺の姉御がやってきたぞう、、」

「いらっしゃーい、、トミさんのお姉さん」

田中が先頭に立ってにぎやかにオッカーたちを迎えてくれました。みんなお茶をしながらをやりながら興味津々とマダムオッカーと長身のミサコを見やっていました。このあばら家食堂のおばさんにオッカーたち歓迎用の料理を頼んであるから楽しみにしていてよとオッカーに伝えたら、一体どんなものがここで出来るのかしらというから、なんでも出切るよインドベジタブルカレーのミールス(定食)〜サンドイッチから魚料理まで。そしたらオッカーはキッチンを見てみたいというから案内しました。何もないの等しい土間に土盛りのかまどがあって調理台に等しいものもなく板切れの上に野菜が転がっているという具合でした。一体そのお魚はどこというから、ここさあと、、裏の砂地をおばさんに掘ってもらってわらにくるまれた朝の地引網で上がった見事な奴を見せてやりました。

「そうね、、この魚ならまだ生きがいいわね!!」

オッカーは日本では料亭の女将を張ったこともある料理の達人なのです。それで、どうするのこうするのともうすっかりおばさんと意気投合して台所から出ようとしません。ここでは英語が通じますから会話に問題はなかったのです。しばらくしてからたくさんの料理がテーブルに並べられました。

「さあ、、皆さん食べてくださいねえ」

「イエーイッ、、、いただきまーす」

仲間はみんなで普段は並ばないご馳走に大喜びです。ボデイガードのミサコも肴に箸をつけて、

「これ、おいしいわよオッカさん」

「だろうミサコ、、この浜の魚はうまいんだ、、、どうしたのオッカーは食べないの?」

「ゴメンネ、、トミ、、わたしには、、チョット無理かなあ、、食べられないは、、あの台所と作り方を見てしまったからねえ、、、」

考えてみたら日本からアメリカといつも一流どころの料理しか口にしたことのないオッカーでした。ここの現実を見ただけで相当のカルチャーショックに襲われているはずです。ましてや病み上がりの療養中なのですから、控えたくなるのも道理でした!!仕方ないから我々バックパッカーとミサコでシッカリ平らげてからホテルに戻りダイニングルームでオッカーの食事は済ませました。翌日にはインド国産のアンバサダーを運転手つきで借り切って北の動物保護区へと行き野生の象さんたちを見てきました。またオッカーはヒッピービーチのわたしの宿の裏手の椰子の林を見て、、

「この椰子の木は四〜五十本もあるのかしらねえ、、これで体にいい石鹸でも作ったら楽しいねえ、、トミ。どうかしらこの土地を買えないかしらねえ?」

何を言い出すのかと思ったら、始めてきたインドでしかもヒッピービーチの椰子の木の林を買いたいとは、、、一体オッカーは何を考え始めたのでしょうか!!

「そしたらね、ここへ家も立てればいつでも遊びにこれるじゃないの。ここの作りだったらきっとトミちゃんの大工でも出来てしまうんじゃないかしら、、、、何か、わたしも夢を見たくなってきたは!!」

このことを土地のオーナーである宿主のサンバに聞いてみましたら、インドでは外国人は原則として土地は買えないことになってると、しかし百年リースというシステムならあるからそれでよければ購入できるとのことでした。

「百年リースって,,,えらい長い時間じゃないかい、、オッカサン」

「そうだわ、、ねえ、、、充分だは、、、」

話をサンバと詰めたら、、マダムになら譲ってもいいということになりました。オッカーは何か強引に自分の明日に幸運を引きずり込んだようでした!!弁護士をとうして正式に話をまとめてからこの土地のへりを流れている小川が土地を削るからとここに石積みの土手をオッカー滞在中に仕上げることとしてすぐに工事に入りました。NYの女傑マダムオッカーのやることは肝を抜かれます。

「さて、、せっかくこんな地球の果てのようなところまで来たんだからトミちゃんまだどこかいい所ないかしらねえ?」

探究心、好奇心、行動力何をとっても本来旺盛なオッカーだからして、とうぜんの質問なのかもしれません。だったら、わたしには取って置きの答えがすぐに頭に浮かびました。このインド南端から数百マイルまた南に下った外海赤道直下にある地球最後の楽園といわれているモルデブ諸島でした。

「これはねオッカー、、どう考えたって夢の珊瑚礁だよ。飛行機でマレーに飛んで、そこからスピードボートでちいさな島に向かうさ、その島にはホテルが一軒あるだけで全てが夢のプライベートラグーンだよ」

そんな夢のような島が本当にこの近くにあるのかとオッカーはまずは疑いそして目を輝かせました。それじゃーオッカーのおごりで豪快に飛んで行っちゃおうかいと言ったら。

「レッツゴウ、、トミ」

これです!!

我々三人は翌日には機上の人となり夕方にはマレー島に着いて、ここからは4時間のスピードボートでした。外海の荒海を突っ切るボート上であたりはすぐに闇に包まれました。その闇の内にあってボートはまばゆい光に包まれて踊っていました!!なぜならかき分ける波は夜光虫の群れをかき分けているのです立ち踊り狂う波頭が全て幻想的に輝くのです!!それに加えて赤道直下の夜空の星の輝きと言ったらありませんでした。我々は夜の海に有って自然が織り成す光の集合体に包まれていました。

「すごいねえ、、、トミ、、、すごいねえ、、、ホント、、嘘みたいだね。こんなこときっとNYの誰に話しても信じてはもらえないわねえ、、、」

ミッドナイトに近く、ようやくに我々は巨大な珊瑚の城壁の隙間からラグーンに入りました夜目にも静かにたたずむ珊瑚の入り江がありました。真ん中の小島には暖かい灯をともして我々を待ってくれているホテルが見えます。とりあえずはテラスで食事をしてあてがわれたコテージに落ち着きました。

しかし夜中に事件が起きました!!なんとわたしだけが食あたりを起こして七転八倒の状態になってしまいました。それを見たオッカーが食あたりだね、、、よーしなおしてあげるからねと、痛みが走る私の腹をわしつかみにしてもみほぐすのでした。その痛さにわたしは絶叫するしかありませんでした。

「ミサコーッ、、トミの足を暴れないように押さえなさい、、、、いいわねッ。治らないのよ、、こうしなければ、、ネッ。」

痛みに体をえびぞりさせる私にオッカーはほとんど馬乗りになって腹をもみ続けるのでした。私の絶叫を聞きつけたホテルマンが二人で飛んできましたから、わたしは、のけぞりながら、

「ソーリー、、、ウルサイよねえ、でも俺が腹痛なんだよ。今友人がこうして直してくれているんだから心配しなくていいですよ」

そう伝えたのですがベッドの上にか弱い男性が一人、二人の女性にほとんど馬乗りになられて悲鳴を上げているのですから、一体何ごとかと現実を見ても何が起こっているのかわからないようでした。無理もありません当人のわたしだって一体オッカーはオイラを殺す気かと思ったくらいなのですから。この信じがたい格闘一時間余りようやくに落ち着いてきたわたしでした。オッカーは指圧の心得もプロ並だったのです。まったくオッカーを療養させて元気にさせるのが目的のこの旅ゆきでわたしがへばっていては笑い話にもなりませんでした。だいたいはこの手の強烈な下痢なら先回のブダガヤでもそうだったように三〜四日はかかるのです。ですがこのまま寝入ったわたしは翌朝には治っていたのだからオッカーの技は神業だったのだとしか思えませんでした。恐るべし女傑、、、マダムオッカー、、、!!

朝日が窓をくゆらしその外には純白の珊瑚の砂浜、、、そして、、嗚呼、、夢に見たラグーンがそこにまったくのエメラルドグリーに輝いていました!!このラウンドスケープはただただ神が地上に残した透明な最後の楽園そのものでした。上の島の写真の全景を見ても分かるように島の周囲に黒く線が入ってその内側が薄いブルーに輝いていますね。この輪の中がラグーンなのです。これを囲っている外海の波を防いでいる城壁が珊瑚の死がいで自然発生的に築かれた壁になっています!!その外海はすぐに深くなってしまいますが、このラグーンの内側は水深五〜六メートルしかなくて、果てもない豊かな珊瑚と熱帯魚やマンタの憩いの地になっています。ボートの上からでも海底までの全てが手にとるように見えます!!さてそれではシュノーケリングをしようかという段になったら、オッカーは、、、ワタシハダメナノヨ、、カナズチ、、!!これにはおどろきました。

「いいわよ、、わたしはこの浜で遊んでるからミサコと二人で行っていらっしゃいな」

それではと心を残しながらも余りの誘惑に勝てないわたしとミサコはラグーンに泳ぎ入りました。そこには数知れない熱帯魚の群れとどこまでも原色鮮やかな珊瑚の宮城でした。余りの興奮に傍らを人魚のように泳ぐミサコの手をわたしはとりました。そのまま、どこまでも果てもなく飽きるなんて言葉は消えてしまって。わたしとミサコはラグーンの底知れない美しさに魂を奪われてしまい、ついぞ顔を上げることもなく漂いました。眼下に巨大なマンタの影が二つゆっくりと泳いでいきました。もうわたしの興奮は絶頂に達していました、、、、しかし、、どうした事か輝いていた夢の珊瑚の海底が暗くなり始めたのです!!わたしはとっさに天変地変が起こったのかと顔を海面から上げてみました。おどろく事に太陽が沈もうとしている夕暮れ時になっていました!!と言う事はなんと我々は昼過ぎから五〜六時間もラグーンに浸っていた事になります!?

「ミサコ大変だよ、、、夕焼けだア、、、まいったな浜でオッカーきっと怒っているよ。かえろう!!」

「ほんとだあ、、うっそうみたい」

これが現実のラグーンなのでした、、、その美しさは驚愕以外のなにものでもありません。それ以降わたしは重いい病気を背負う事になりました。この先どこの海に行ったとてこれ以上の海に出会うことはないのですから、その寂しさはたとえようのないものになってしまったのです!!

翌日にはオッカーを楽しませようと海底を覗ける大きなバケツのようなめがねとボートをキャプテン付きで雇って、イザ、くまなくラグーン内クルージングに出かけました。太陽光は海底のあらゆる色を反射させて輝きます。昨日であった巨大な円盤マンタもまた海底を散歩していました。

「オッカーあれだよ、、ホラ、、マンタだよ、、でかいよなあ」

オッカーも目を輝かせています。と、はるか前方ラグーンの内海に小さな長さが三十メートル位しかない白い島が浮かんでいて椰子の木が数本ゆるい風にその葉を揺らせていました。

「キャプテン右手前方に無人島発見、、、イザ、、、上陸断行しよう」

「駄目ですよ、ダンナ。あの回りは珊瑚が大きくてとても危険だからこのボートではいけませんよ」

「それはまっすぐに行ったら珊瑚にぶつかってしまうから行けないだろうが、大丈夫さ、おいらが船首で珊瑚を見つけて左だ右だと指示を出すからその通りにやったら行けるよ。珊瑚と珊瑚の間には必ず谷間があるじゃないか、キャプテンの位置からではその水路が見えないが舳先からだったら見えるよ。まかせとけって、、心配ない、、レッツゴウーキャプテン」

「ヨーシいいぞう、、そのまま少し左だ、、OKここで右、、、」

ぴったり合ったわたしとキャプテンの呼吸で問題なく我々は無事に夢のミニ無人島に上陸しました。

「ハイ、、オッカーとミサコに夢の無人島をプレゼントしましょう。ここは我々だけの島だから誰に遠慮も要らない。コバラムのヒッピービーチで外人女性バックパッカーたちがしているようにブラをとって上半身裸になりましょう」

「イヤダハ、、トミなにいってるの」

「嫌ではないでしょう、、ここまで来たんだから思いっきりよく脱いじゃって心を開放しましょう。ハイ記念撮影のカメラスタンバイOKです。お二方どうぞう、、」

とうとうわたしのハシャギに乗った二人でした 。

「そうだねえ、、、、だったらやっちゃおうか、、、、エッ、、、、ミサコ!!」

「ンッ、、いいわよ」

それいけーッ、、、ワーイッ、、とか奇声を発しながら、ミサコとオッカーの四つの乳房は太陽の恵みを受けて恥ずかしげに踊って無事にわたしが借りたミサコのカメラに収まりました。

オッカーとミサコのコバラムとモルデブはこうして終わりました。

{オッカーにとってはこの旅が見事に転機になり、体に良い椰子のみの石鹸、人の体を治すマッサージ、健康志向、、、この発想がNYに帰ってからはたちまちの内に形になって言ったのです。まずオッカーはプリティーケアーという美容の為のサロンを作りました。ここではフェイシャルマッサージ、サウナ、日本のキダチアロエ化粧品のNY販売代理店の約束を東京の本社から取り付けてこの販売もし始めました。次のステップは健康堂というやはりフェイシャル、そして指圧に重点を置いたサロンでした。この頃には、日本から首相がNYに来るとオッカーが呼ばれて首相の体をもみにうかがうほどになっていました。その後は、真向法の指導者の資格を取って生徒のオジンたちにインドの話などを聞かせながら指導しているとのことでした。二〇〇六年現在も彼女はNYで活躍しています。(幸の偶然)}

オッカーとミサコがNYへと帰ってしまい、わたしにはまた日常が帰ってきました。そろそろ体も鍛え終わったしいよいよヒマラヤを目指すべく北に向かって移動しようかと思い始めました。田中君や仲間はわたしにいつヒマラヤに入るのというから、、、多分二か月後の十月にはカトマンドーから出発するよといったら、みんなが、だったらもう一度このメンバーで会いたいから、どうだろうそれぞれの旅をしながら気が向いたら十月にみんなカトマンドーに集合しないか?、、、こんな提案を田中がしていました!!

「別にまた無理に集まることもないだろうに。みんなは、みんなの旅の仕方があるんだから気ままにするさあ」

わたしにとっては、、別に楽しいのはいいのですが、ヒマラヤは修行場(禅道場)のつもりではいるのですから、そういう田中の発想に素直には喜べないのでした。しかし、まあ、集まったらそれはその時の事なんだから楽しくやるさ、、、これがわたしのスタンスでした。わたしの旅の仕方は非常にわがままです。

 

登山隊長

トリバンドラム発の列車の切符を街まで行って手に入れ浜に帰ってきて、椰子の葉陰の下を歩いていました。午後になって陸から海に落ちていく風に硬い椰子の葉先がかさかさとリズムを奏でています。わたしはこの風が起こすあらゆる木立のリズムの音がこよなくすきなのです。これは遠い日のお袋の子守唄をわたしに連想させるからです。わたしはマザコンかもしれません。そんな緩やかな時間の流れの中を私は楽しみながら柔らかい土を踏みしめては歩を運んでいました。椰子の木陰から目を海に転じたら、そこの土手に一人の青年が座っていました!!瞑想状態に入っているようでした、、、、。これより少し先に行ったらたくさんのヒッピー仲間がいて楽しいのに、この人はわざわざここにいて一人で海風を楽しんでいるのか。もしかしらわたしに似たわがままな性格の旅人なのかなとか、、いろいろ考えて、、どうもわたしの足は止まってしまったのです!!斜め後ろから見ているわたしの目には彼は日本人のようでした。不思議な事にたいていの場合は私は人に会うと人見知りします。ですからほとんど自分からは声をかけません。なのにこのときばかりは、どうしても目がその座っている彼から離れないのでした!?

強烈な磁石に惹かれるようにしてわたしは彼に近づいていきました、、、?そしておそるおそる声をかけてみました!!

「こんちわあー、、日本人ですかア、、、」

怪訝そうにふりむいた彼は二十代半ばに見えました、非常にハンサムで濃い眉毛が意思の強さを語っていました。

「はい、そうですけど!!」

「わりーねえ、、、瞑想のじゃましちゃったかなあ、、」

「そんなんじゃありません、、ボーっとしていただけですけど、、、」

「ああ、、そう、、!!、、」

それから自己紹介をして、、あなたの旅はこれから西ですか、東ですかとか聞いたら、彼はもうこれから日本へと帰るところですと言います。そしてなぜここにいるのかというと。彼は二十七歳と若いのだがヒマラヤ七千メートル級を隊長として挑戦、無事にサクセスして全員下山、カトマンドーで仲間と解散して彼は一人でゆっくりしてみたいとこの南の浜に来たのだといいます!!これは神がわたしに彼を引き合わせてくれたのだろうかと心躍らせたわたしでした。

「そうヒマラヤの登山隊長なの、、、あのねえ、オイラこれからエベレスト街道をトレッキングしてせめてエベレストのベースキャンプまで入って見たいと思ってるんだけど、俺、山やったことないんですよ、、ヒマラヤの事教えてもらえますか?」

「、、、やったことないって、、ぜんぜんですか?」彼はまさかという顔つきをしていました。

「そうねえ子供の頃遠足で横須賀の武山に登った事がある程度だね」

「それでいきなりヒマラヤの五千メートリ以上にトライしようというのですか、それはやめたほうがいいと思いますけど」

そう言われて、はいそうですねと引き下がれるような常態のわたしではありません。ですから、どうして行くのかという理由を彼に説明しました。三十七歳になって絵に挫折して、NYで明日の目的が見えなくなってしまったこと。だから自分に出来る限界に挑戦して自分はナンなんだと自分に問いかけたい事。

「旅行きの行程の限界まで行ったら、、その、あなたの言う明日って見えるものなのですか?」

「見えるさ、。、五年前には、、やはり自己喪失して車で地球を一周してしまったけど、このインドのブダガヤで禅定に出あって、その時に明日の自分を自覚したよ!!」

ゆっくりと話しているうちに彼はわたしがどうしても何があってもヒマラヤに入るのだろうと感じたようでした。ですからエベレスト街道の地図を広げてわたしに説明をし始めたのです。私が二ヵ月をかけてふもとから全山踏破してベースキャンプまで行きたいといったら。だったら、そこにはカラパタールという五千四百五十メートルの山があるからそこの頂上を目指したらいいでしょうといいます。そこからはエベレストやヌプチェを目の前にして、眼下にベースキャンプを見下ろす事になると!!ここまでがバックパッカーの限界だと。これ以上はプロの登山家の領域だとも。大事な事は必ず高山病にかかるからこの予防をしなくてはいけない。つまり二千.三千、四千と初めての経験の高度に体を順応させないと高山病になるから、登った村でその日の宿を見つけたらザックをおいてから身軽になり必ず裏山とか近くの山を百か二百登って降りてくる事と!!そうすれば体はその高度に順応するから高山病にはかからないと。

「これだけは絶対にやってくださいね、、素人の人たちはよく登った初めての高度のままで眠ったりするんですよ、だから高山病にかかって動けなくなってしまったりするんです」

これは、シッカリ、やらなければと肝に銘じたわたしでした。それで彼がこの地図のこの地点の裏山はホラ等高線が三本入っているでしょう、だから三百bです、、と、言いました!!

「エッ、、チョット待ってよ、、このミミズのはいずったみたいな線、、、これって、等高線って言うの?それに、何々、、この線と線との間が百bなの。、、なんてまあ山の地図って便利にできているもんだねえ!!」

私のこの返事を聞いた彼は、、またも口をあんぐりとあけて!!

「、、、トミザワサン、、でしったっけ、、、やっぱりあなたはヒマラヤやめたほうがいいと思います、、、!!」

これはしくじりました、、余計な事を隊長さんに言ってしまったかと後悔しましたが、かといってこれほどの無知がわたしなのですから、これを認めてからでなくては前にすすめないのです。頭をかきながらも、また、しつこく質問攻めを繰り返すわたしでした。結果、心優しい山男はこの地図とか山の装備の中古品はカトマンドーのこの店に行ったら手に入れることができるとか、エベレスト街道の出発点はルクサングと言って、そこまではトラックが入っているからと、教えてくれました。また四千bを超えたら歩けるのは毎日午前だけで午後は毎日吹雪になると。五千では氷点下二十度に下がるからカトマンドーで良質の中古のダウンジャケットを買うこと。またベースキャンプの手前の巨大なクーンブ氷河ではルートに迷うから、しっかり、ケルンを見極めて歩く事。ほんとうに有益なたくさんの情報をこの若き隊長さんは私にくれたのです。

「どうぞ、、いい旅をしてきてください、、、」

「んッ、、、あんがとね、、、貴重な情報きっと大事にするからね、、、じゃッ、、!!」

天の采配と言うしかないようなグッドタイミングの出会いでした。わたしは目的地カトマンドーへ向けて移動を開始しました。

 

インド縦断

デカン高原はコーヒーの産地でした。のんびり列車で定食を手づかみで食べてから、うとうとしていましたら、バクシーシー(冨めるものは貧しきものに施しを与えよ)と、か細い声が通路から聞こえてきました。象皮病にかかっているらしく彼の足は丸太のようにふくれあがり、それを引きずったまま横いざなりに移動しては恵みを求めているようでした。

「ダンナ、、少しめぐんでもらえますか、、」

彼と目が合いました、、いい目をしています。

「ああ、、、いいよ、、チョット待ってな、、いま、、小銭出すからな、、、、、」

わたしはポケットを探ってみましたが、折悪しく小銭がまったくないのに気づきました。困りました、少しはやりたいのに大き目のお金しかこの時はなかったのです。そんな私のしぐさを見ていた彼は言いました。

「ダンナ、、いいんだよ、ありがとう、、気持ちだけで充分さ、、」

そういい残して彼は膨れた足を引きずりながら通路をはいずりバクシーシーを繰り返します。この国ではこれ等の乞食にはお金がある人たちはほとんど施しをしようとはしません。なぜなら彼らを人間とは見てもいないし、口を聞くのも穢れると思っているからです!!これ等乞食やサドー(乞食をしながら聖地ベナレスのガンジス川を目指す修行者=彼らは子供に手がかからなくなって大きくなったら、その家を出てサドーになり死に場所を求めて聖地を目指すのですが、、、わたしが勝手に思うことは、、これは自発的な間引きか口減らしと考えます。それがまったく自然に行われているほどにローカーストの人たちはまづしいのです)に、心からの施しをして彼らを助けてくれるのはおなじまづしい人々なのです。

私はこれより五年前に始めてインドを訪れた時には彼ら乞食に心からの施しを出来なかったのです、傲慢でした!!ようやくこの時になってわたしはインドと言う彼らの国を旅させてもらっているのだと言う気持ちになってきたのです。ですから手元に小銭がある以上は彼らと分けようと思いました。アメリカで稼いだドルはここの貨幣価値から言ったらずば抜けて高いのですから、たとえ一日に五人十人に小銭を施しても1ドルになるかならないかなのです。だったら、精神世界のインドの心に対しての、ありがとうでいいと思うようになったのです。

そういう気持ちで彼らに接していたら先のように、、自分から物乞いをあきらめて、、なおかつありがとうと言ってもらえるのでした。五年前のベナレスでは始めてバクシーシーされたその手が病に犯されて溶けていたのに驚愕したわたしは、ノーッ、、と、声を荒げたものでした。結果その乞食は私の傲慢さに腹を立てたのでしょう、大衆の行きかう中で大声でわめき、わたしをののしっては服をつかんだまま離れようとしませんでした。この時のことを思い出すとわたしは心が痛くなります。出来るなら、もうしてはいけないものだと思ってこの時は列車に乗っていました。

 

アジャンタ石窟寺院

かつて、このインドの地にこれほどまでにブッディズムは根を下ろしていたのかと思い知らされるアジャンタの石窟寺院でした。広大な谷間の岸壁にくりぬかれ造形された寺院や巨大な仏像たちです。一体どれほどの年月をかけて祈られ掘られたものかと思うと気の遠くなる現実のラウンドスケープでした。

この谷間へと降りる前の巨大な岩盤の割れ目には時間の結晶と言ったらいいのかきらめく水晶がびっしりと詰まって日に輝いていました!!どうしてこの地で仏教はこれだけの遺跡を残しながらもヒンズー教と回教に追いやられてしまったのか 、、それはブッダの誕生地に起因するものとわたしは考えました!!なぜならブッダはわたしがこれから辿るヒマラヤのふもとネパールで生まれているからです、、、、、!!多分その地は、、この限界に近い大自然の驚異にさらされ続けてなおさらに息づき強烈な死生観を日常のものにしてしまうインドとはちがった自然環境があるはずです。よって仏陀は流れてきてこの地インドで悟りを開き教えに入ったのだが、自然の流れとして東へとその教えは移動をして、、その東のはずれ、日登る国日本で最終的に結実したのではないでしょうか。この自然環境が似通ったところに始めて仏教は落ち着いたのではと、、そう思うのです。

日本においては武士道から始まり茶道、華道、書道、柔道、、、つまりあらゆる道とつくものの流れは全て仏教の禅道から来ています。よってわれら日本人は意識するとしないに関わらずに、その息吹の下で育まれてきたはずなのです。それを根底からゆるがせてしまったのが敗戦であり、その年に生まれた私は物心ついたときにはアメリカンモダニズムにどっぷりと浸かっていたのです。よって、五年前にこの地インドに来て始めてブッディズムに出あったと言うようなおかしなわたしに成長してしまったのでしょう!!二度目のインドは静かにわたしの心を包んでくれているようでした。

アジャンタを後にしてなお列車で北上を続け、巨大なインドの北東のはずれ、ヒマラヤが見えると言う紅茶の高地ダージリンへと向かいました。

 

ダージリン

高地ダージリンへと向かうにはオモチャのような山岳列車に乗りました。かつての支配者だったイギリスが残していったものです!!小さいがゆっくりと力強く列車は高度を稼いでいきました。何か時間に忘れられてしまったような不思議な気持ちにさせられたこの山岳列車です。

山の上には見晴るかす茶畑が広がり、、そして見えました。そこにヒマラヤ連山の威容が天空に横たわっていたのです。まるで涅槃佛のようにしてわたしを迎えてくれた白亜の連山でした。

この美しい雪化粧した山々を踏破すると言う事はどういうことなのか。わたしにとっての初めての山歩きです!!4千メートルを越えたら毎日午後は吹雪になるという!!そして氷点下二十度になると!!この現実を旅の最終目的としてここまでやってきて!!不安と歓喜が交互に沸き起こりわたしをドキドキさせています。十八歳の時に人間志願してからすでに三十七歳、、、一九年間を費やした美学追求に挫折して明日への生きる目的をなくしてしまいました。まったくの灰色の明日、、、、!!そこに何がしかの光明をこの旅で見つけない限り私にはこの旅の終わりはこないことになります!!呼吸の重みを丹田に無理にも落として整えながらの旅行きです。

ダージリンからカトマンドーへは噂の長距離バスに乗って移動しました。このインドの北東のはずれから国境を越えてネパールに入る道行には大陸インドの乾いた大地と言うイメイジは掻き消えて豊かな緑のラウンドスケープが続きました。わたしが想像したようにブッダの生まれ故郷には調和の取れた自然の輪廻が感じられブッダの感性の礎になっているだろうと言う事に確信を深めたものです。

 

カトマンドー

ようやくにたどり着いた旅人たちの心の故郷カトマンドーです。ネパーリーの顔立ちはまったく我々日本人と変わらないものでした!!わたしの兄や友人たちがそこここに闊歩している感じで心嬉しくなりました。コバラムの浜の登山隊長が教えてくれた山行きの人たちが常用すると言う安宿にザックを置きました。ここから山に入るときは最低限の荷物にして不要なものはこの宿に預かってもらって山に入ると言います。そして降りてきたらまたここに泊まって荷物を受け取り通常の旅に返るわけです。広い裏の草地には旅人たちの洗濯物が暖かい陽光に揺れていました。

コバラムで出あった登山隊長の言にしたがってわたしは中古の登山用具店に行きダウンジャケットやら詳細なエベレスト街道のトレッキングマップやらと取り揃えました。このカトマンドーからは東へ行けばエベレスト街道なのですが西のポカラへと行けば短い日にちで楽しめるトレッキングコースがたくさんあります。しかしわたしにとっては最初からこの一番の難所と言われるエベレスト街道しか頭にありませんでした。氷河湖やクーンブ氷河、エベレストベースキャンプを見下ろし、エベレスト本体を眼前に見ると言うカラパタールの頂、、、わたしの空っぽな心がうずいて求める何かがこの街道にはきっとある、、そう確信している私でした。

この街には(ぶっ飛び)と言う日本飯屋がありました。若い精悍な夫婦がこれを営んでいて我々旅人に懐かしい日本の味のカツ丼とかを提供してくれていたのです。この若旦那の夢はいつかはNYに店を持ちたいと言うことでした!!こんないいところにいるのにどうしてあの限界のNYへと行きたいのかとわたしは不審に思ったものです。この店の近くにフランス人がやってる飯屋があってそこではウサギのステーキを出していましたがわたしのイメイジではウサギさんは食べるものと言うイメイジがなかったので食べませんでした。またあるラーメン屋がありここの日本人オーナーはシッカリおじさんでしたが若いネパール人の娘を嫁にしていました。このおじさんは日本を畳んでこの地に永住する気でいるようでした。それぞれにいろんな人の生き方があるものだと思いました。

安宿、裏庭の草地でぼんやり日向ぼっこをしていました。ここは白いブロックの塀で囲われていて、その塀の向こう側右手にはわたしの泊っている宿よりは値段が高いツーリストロッジが五〜六階建てで淡いクリーム色に陽を照り返していました。たぶん、NYのコスモはヴィレッジの旅人君と連れ立ってここに来たらきっとこの手のロッジに泊るだろうと思いました。そんなことを考えていたら、その白い塀の向こう側をコスモの頭だけが歩くのがはっきりと予感されました!!なぜコスモだけが予感されたのか知らんといぶかってみましたら答えがすぐに分かったのです。それは旅人君は背が小さいからこの塀の高さでは隠れてしまってコスモと一緒に歩いていてもここからの私には見えないのです。この予感は結構クリアーでしたから近いうちにコスモと再開できるだろうと確信しました。

そうこうしていたら、コバラムの浜で知り合った田中君始め仲間たちがぞろぞろとカトマンドーに集まってきました!!やーみんな元気そうだねとワイワイやっていたら田中がまた変な提案をし始めました。この町の郊外にはドルで遊べるギャンブルハウスがあるというのです。ですからみんなの機運試しにワーッっと行ってみようと言うのです!!田中君はコバラムでもみんなが集まればすぐにご開帳となってやり始めるのです。ちなみにわたしはこの歳(三十七歳)になっても女遊びもした事がなくて酒も博打も駄目な典型的な堅物君を地でいっていました。それを知っている田中君は、そんなわたしを、、、それじゃあー人生の機微も世間も分からないからもっとリラックスして遊び心を楽しまなければいけないとばかりに私を誘い込むのでした!!

「ホラ、、トミさんみんなも行こうって言ってるジャンか、、行きましょうよ。ハッシシー(マリワナのエキス)がんがんに利かせてさあ。だめですよう、いつまでもうぶなんだから」

十五歳も年下の田中君にこう言われてしまうようなわたしでした!!その上しまいには彼に巻き込まれて一緒にハッシシーを吸って、、頭天国にして出かけるはめになってしまうのですから私もいい加減です。わたしは原則としては博打の才覚もないし、しないのですが、ラスベガスとかに行けば少しは遊びではしたことがあるのです。カトマンド-のギャンブルハウスはブラックジャック(二十一=トウェニーワン)でしたから、わたしにも分かりました。

いまだかって博打で勝ったことのないわたしですから、捨てる気で二十ドル分のチップを買ってディラーの前に座ってみました。シッカリ利いたハッシシーがめちゃ頭をクリアーにしていて気持ちよくカードを引いていきました!!わたしがディラーに向かって一番左でしたから右手に三人が座っています。私の隣は田中君でした。彼ら三人が引いて開いたカードを読んでいけばわたしのときになって大き目が来るか小さめのカードが来るかは容易に判断できました。それがことごとく当たりはじめました!!またそんな私を見ていた田中君が、、私に引かせるために自分の引きをコントロールしてくれたためもあり、果てしなく当たりつづけて行きました。自分でも信じられないほどに次のカードが読めるわたしでした!!

「いいぞうーッ、、トミさんこの際、、勝ちまくってギャンブルハウスを乗っ取っちゃおう、、、」

田中君が隣で騒いでいますが、、、わたしの他わみんなが負けてしまっていました!!遊んで捨てる気でいたわたしのチップ二十ドルはなんと約二千ドルになっていました!!信じられません一体何が起こったのか、、ヒマラヤの山の神がまだ合間見えない私に乗りうつったのか、、、そうとしか考えられないこの現実でした。三十七歳になるこの歳までまともにギャンブルに勝ったなんて経験のなかったわたしです。

「スゲーッ、、スゲーよう、、トミさん、、、、、ところで、俺すってんてんなんだけど、、どうトミさんドル貸してくれる!!」

ここで、、不思議な事にわたしの集中力はぷっつりと切れました!!急に頭の中に綿埃みたいなものが舞い始めたのです。安宿でみんなでハッシシーを吸ってから約三時間が経過していました。つまり飛びが切れてなくなったようでした!!わたしは通常の正気に戻ったようでした。正気なら、、私は果てしなく凡人で博才などないのですから次のカードなど読めるわけもないのです。

「だめだよ田中よ、、俺の集中力が切れた!!もう出来ない、、もうやっても勝てない、、、ここで止めておこう!!」

そういうわたしに田中は、、そんなことはないまだまだいけるからやりまくらなくてはいけないとまくし立てました。私にはもうだめだと言う確信があったのですが仲間六〜七人といってワイワイと楽しんでいる最中だし、元はと言えば二十ドルだったのだからいいかという気になり田中に千ドル分のチップを貸してからまた始めてみました!!見事に二人ともすっからかんに搾り取られました。しかし私にしたら予定の二十ドルでここまで遊ばせてもらったのだから充分でした。そして、、現実には田中君に貸した千ドルだけが残った事になりました!?その金はわたしがヒマラヤ街道から降りてくるまでには日本から送ってもらって安宿に預けておくと田中は言いました!!どうやらわたしはシッカリ勝った事になっているようでした。

コスモ

安宿裏庭の陽だまり、私はここが好きで時間があれば草地に横になって本に目をとうしたりしていました。山にこれから入る人や降りてきた人たちでこの宿はいつもにぎわっています。旅先はどこでもおなじですが圧倒的に多いのがヨーロピアン、オーストラリアン、そしてアメリカンと少々の日本人です。わたしはいつも思います、どうして日本人はこんなに少ないのかと。若いときの自由な旅はきっと精神的には良いと思うのですが、えてしてフリーターになってしまって手に職人的な技術を求める人が少なくなるような気もします。それが淋しいと感じるのは、人は何であれ仕事をするときには何かを作る事に端的に充足感を感じる事が出来るからハッピーになりやすいと思うのです!!大工、料理人、機械工、これらの人たちは日々に満たされやすいのですが、多分、商社の人たちが世界の品物をあっちえとやったりこっちへと移動したりして利ざやを稼いでいるようですが、ここからは余り創造的な喜びは生まれてこないと思います。こんなことを考えながら人の生き様のうちには時に思いっきり旅に出ることは必要かなあとか、目を上げて青い空を見てみました!!そこにドキッとする映像がまぶたに焼きつきました、、、白い塀の上です。女性の頭が右から左へと動いていました。ふっくらとした白い頬、顎を引かずに歩くNYのジャズピアニストコスモの顔がそこにありました!!まったく先日の予感とうりになったのでわたしは自分の予知能力はなかなかのものだと感心してしまいました。わたしは大声で叫んでいました。

「コスモーッ、、、」

瞬間顔をのけぞらせて立ち止まったコスモ、後ろに右に首を振りながら、

「ワッ、、ワアーッ、、トミさん、トミさんだア、、どこ、どこなのトミさん、、??」

「コスモッ。こっちだ左だあ、塀の左側だア」

やっとわたしを見つけたコスモでしたが、一体この目の前の塀をどうしたものかとおたおたしています。

「コスモー、そのまま前に歩いたらこの庭に入れる裏口があるよ、、前だよ前、、、コスモが歩いていた進行方向だア」

ワアアーッとばかりに駆け出したコスモです、そして駆け寄ってきたコスモの顔はすでに涙でぐしゃぐしゃになっていました。両手をひろげて私に飛び掛るようにして抱きつき泣きじゃくるコスモでした!!彼女もまたオッカーと一緒でわたしのインド狂いのたわごとを嫌と言うほどに聞かされてとうとう思いもしなかったこの地へとはるばるNYからやってきてしまったのです。

「トミさんッ、、トミさんッ、、会いたかったよう、、アタシねここから少し山へ入ってトレッキングしたのねッ、、そしたらね、、山は夜寒くてね、、死ぬかと思ったんだよう、、、怖かったようトミさん怖かったよう」

泣きじゃくりながら訴えるコスモでした。これは典型的な思慮の浅いバックパッカーの山行きの現状です!!それにしても一緒にいるビレッジの旅人君のエスコートはこの程度だったのかとわたしは少しく不満になりました。こんなわたしとコスモの再会劇を彼は離れて後方で黙って見ていましたが、悪い予感がわたしに起こりました。多少は危惧していた事だったのですが、どうも、そのわたしの危惧したようにこの旅人君はどうやらコスモにほれてしまっているようでした。わたしはこの十年間のコスモの男遍歴をいやと言うほどにNYで見てきていましたから、この旅人君は彼女には惚れてはいけない純朴な青年だったのです。それにしても紹介したのはわたしなのですから、この罪作りな因果の発端は私にあるというべきでした!!

彼女たちはやはりわたしが思ったように、この宿の右手にそびえるハイカラなトーリストロッジに泊っていました。わたしはもう山に入る準備万端が整ったので数日の内にはヒマラヤ連山の入り口ルクサングへと向かって移動する気でいました。コスモはここを旅の最終目的としていてここからは東京へと旅人君と別れて帰るといっていましたが、ここで問題です。旅人君はコスモと一緒に日本へと帰るといっているようでした。そしてコスモと結婚したいと!!

コスモは旅のエスコートのお礼にと求められるままにその肉体を彼に与えたと言います!!だから、もう彼にはお礼が終わっているのだからこれでお別れということになってあっけらかんとしているのですが、純朴な旅人君としてはもう勘違いさせられて狂わされてしまったのですからこれは収まりません!!まいりました。かといって私が口を挟めることでもありません。彼とのことはコスモに任せて数日後にはわたしはルクサングに向けて出発しました。コスモの別れの言葉は、山に入って満月の夜にはお月様に向かって自分にメッセージを送ってくれと、そしたら東京で確かに彼女はそのメッセイジを受け取るからと!?どうも彼女にはあるようなのですテレパシー受信能力が?

 

ルクサング

カトマンドーから東へと向かいバスに乗りました。ヒマラヤ連山がはじまるふもとの村でこれ以上はバスが入れないと言うところが終点となっていてここからは山に入るトラックがルクサングまでは乗せて行ってくれるとのことでした。このトラックは一日に一便しか出ていなくて山の人たちでごった返していました。ようやくに手に入れたわたしのチケットの場所は、、、驚くことにトラックの荷台に幌を張るための鉄骨が裸で組んであって、、、その鉄骨の上がわたしの場所だと言う事でした!!その現実を理解するのには多少の時間が必要でした、、、、。なぜなら私の三十七年間生きてきた常識では考え付かない場所だったからです。まず荷台は前の日から待っている山の人たちと荷物ですぐに満杯になりました。それからその上に組まれた格子状の鉄骨に順次人が登って腰掛けるのです。荷台は満杯でありの這い出る隙間もないのですからこの天上の我々は自分の荷物を持ったまま登るのです。わたしはザックを背負ったままです!!動き出したトラックはいきなり土手の山道に入りゆっさゆっさととんでもない荷重に耐えながらゆれてぶーぶーがたごとと走り始めました。鉄骨の上の我々は落ちないようにシッカリと両隣の乗客と体を抱き有っているのです。すぐにお尻に食い込む鉄骨の痛みが走り始めました!!これはどこまで耐えられるかとわたしは心配になりました。なぜならこの山道を五時間余り登ってそこが始めてルクサングの村だと言うのですから!!すぐに山は暮れて闇の中をトラックはあえぎながら登って行きます。雨が降ってきました、、、当然全員ずぶぬれになって互いの肩を腕を握り合ってしもじさにも耐えるのです。この時ほど始めて出あった他国の隣の村人たちにその肌のぬくもりと共に人間としての親近感を感じた事はありませんでした!!お互いが数珠繋ぎになって結束していなければ下の荷台の人たちの上に転落してしまうのですから。

山道はどんどん急激になり、でこぼこな土くれの道とはいえない代物の右側は切り立った断崖なのです。鉄骨の上は結構な高さですから揺れは大きく感じられます。右側にゆさーッとばかりに傾いて揺れたときなどはそのまま見えない深い崖下に吸い込まれ落ちていくような恐怖に何度も私は襲われました。

これが、エベレスト街道の出発点ルクサングへと辿る道程なのです!!土砂降りの雨の中を何度かの休憩を挟んでようやくに山間の村ルクサングへとたどり着いたのは大幅に遅れてすでにミッドナイトを過ぎていました。道路と言える道はここまででこれからは人が歩けるだけの山の人達用の小道が有るだけです。しかしとにかく少しは眠って体を休めない事には夜明けを迎える事も出来ませんから宿を探してみましたがすでにひなびた村のいくつかの家は山の人達でいっぱいでした!!どうにも困ってしまったわたしは雨をよけるために鳥小屋のひさしに非難しましたが、、これ以外に場所は見当たりません。仕方なくこのひさしで吹き込む雨にさらされながらわたしは夜を明かしました。

朝方には雨もあがって晴れ渡った空に連なる連山が視界を奪って横たわっていました。イザ朝飯を詰め込んでからエベレストへと通じる街道はどこかなと探してみましたら、、、とにかく次の村へと辿る道はこれなのだとたくさんの山の人達がその森に分け入ってそこの直壁に近いまるで獣道としかいえないような小道を登り始めているのです?一体これが道なのかといぶかった私でしたから村人に聞いてみました。そしたら次の村へ行く道はこれだけだと言います!!だったら行くしかないので私も崖に近い小道を登り始めました。木の根に手を当てて体をザックごと引っ張りあげるような登山道です。山の人達はまるで身軽に大きな荷を背負ったままこの崖を軽々と登っていってしまいました。たちまち一人取り残された私はそれでもこの直壁を二〜三時間かけてようやくに登りきったものでした。

頂の平地に立ち視界が開けたのはいいのですが、今度は反対側に同じような直壁の下りが待っていました!!とりあえづ汗をかいた体を休めて軽く手持ちの軽食を詰め込んでから下りにかかりました。凄い急坂です!!

しかし下るだけなのだから背のザックも軽いものだと調子に乗って、、ホイホイとリズムに乗って駆け下っていたら、下方に見える村道に降りる前に膝が笑い始めたのかなあとか思ったとたんに痛みが走って、、、、ガック、、、とばかりにわたしはくづ折れて座り込んでしまいました!!一体わたしの足に何が起こったのかノー天気なわたしにはしばらくは唖然とするだけで分かりません。まいりました、、すでに誰もいない山腹に私一人だけです、、、どうしたものかと思案にくれていたら膝の痛みの原因が分かりました。訓練されていない膝は下りにかかるからだとザックの重みには耐えられないものなのです。これは以前にエジプトでギザのピラミッドを駆け下りてしまったときと同じ現象でした!!うかつでした、、すでに経験していた事なのに、またやってしまいました。それにしてもこれから果てもなく続く連山の下りをわたしのこの体たらくではまともには超えてはいけないのではないか。思いっきり私は初日にして意気消沈するしかありませんでした!!

いつまでもへばっているわけにもいかないから体を寝転んだまま反転させて崖に這いつくばりながら体をズリ下ろしてみました。なんというこっけいなわたしの無様な格好だった事でしょうか、情けないなります。それでも時間をかけてようやくに下の村道へと後二十メートルぐらいかと言う時に左側から大きな荷を背負った村の人が独りゆっくりと歩いてきました!!わたしの這いつくばっているおかしな格好を目に止めた村人は立ち止まってわたしを見上げていました。

「すいませーん、、足が痛くて動けないんだけど助けてもらえませんか?」

通じないとは知りつつ英語で問いかけてみました。この場合言葉が分からなくても何が起こっているのかは一目瞭然でしたから、、しょうもない素人がと言う顔つきで自分の荷を降ろしてわたしのところまで崖を登ってきてくれました。

「どうも、、ありがとう、、おじさん」

彼は私のザックを黙って肩から外して自分で背負い、それからわたしをかかえ起こして自分の肩につかまらせながら崖を下りました。村道に降りてから地べたに置いた自分の荷の上にわたしのザックを固定させて背負い、あいかわらづわたしに肩を貸してくれながらえっちらおっちらと次の村へと向かいました。夕暮れ時になってわたしとおじさんはゆるい山道を登って村へと着きました。知り合いの家らしいのを訪ねて何日かこいつを休ませてやってくれとかなかにいたおばさんに頼んでくれているようでした!!怪訝な顔つきをしながらもこのおばさんは仕方ないだろうねと言う感じで承諾してくれたようです。

「ありがとう、おじさんこれ少ないけどお礼です」

わたしが立ち去ろうとするおじさんにお礼の気持ちでお金を上げようとしたのですが、おじさんはそんなものは受け取れないよ、心配するなと言う顔つきでぬんぬんとして出て行ってしまいました。

この家にはおばさんと小さな子供と二人だけしか見当たりません。男供は出稼ぎにでも出ているのかもしれませんでした。子供は暇さえあれば仏教の経本を声を上げて読んでいます!!この地域での子供の勉強とは仏様の教えを習う事かと感心して私は子供の朗読を何日も聞いていました。三〜四日が過ぎてだいぶ膝が楽になってきましたが、わたしは考えてしまいました。こんな私にこれからの連山をとても耐えられるとは思いませんから尻尾を巻いてカトマンドーへと逃げて帰ろうかとです!!エベレスト街道をふもとからやるなんてことは通常はプロの登山家たちが足慣らしの為にやることであって、一介のバックパッカーがすることではないと思い知らされたわけです。我々のような旅人はだいたいが小型機で三千メートルのナムチェバザールまでは一気に連山を飛び越えてしまってそこから1〜2週間のトレッキングでエベレストベースキャンプかカラパタールの頂を目指して帰ってくるのです。わたしのようなバックパッカーがやるべきコースではないのです。ましてや山に登った事のない素人がです。

わたしは決めました、足が治ったらヒマラヤ行脚はあきらめてとにかくカトマンドーへと帰ろうと!!

エベレスト街道最初の村に逗留して五日目、ようやくに普通に歩けるようになったわたしでした。引き返すためには初日のあの崖をまたよじ上り下りなければルクサングへとは帰れないのですからザックを担いで近くの山をゆっくり足を運んで膝の具合を試したところ何とか歩けていました。小さな山の頂にようやくに立ちいくつかの山の稜線が折り重なっているのを見ました!!この山たちの向こうへとエベレスト街道は続いていて果てには世界最高峰のチョモランマ(エベレスト)があるという、、、、、!!行ってみたいという欲望が急激にふくれあがってきました!?しかし足は?、、何とか歩けているだろう!!きっとゆっくりと歩いていくのならこんなわたしにでも行けるかもしれない。この旅の原点にまたわたしは帰ろうとしていました。だったらこの小山の下りを通常の速さでやってみてそれでも膝が大丈夫だったら明日は東へと街道に入っていってみようかと自分に言い聞かせて力強く下ってみました!!OKです、、膝は完全に完治していました。これは山の神がわたしにゆっくりでいいから辿っておいでと誘っているのだと思いました。

お世話になったおばさんと子供に礼を尽くしてかっちりとザックを肩と腰に止めて念願の街道にわたしは入っていきました。時にすれ違う山の人は腰に刃渡り四十センチ余りある山刀をさしていてにっと笑って「どこえ行くんだい」と聞いてきましたから、私はフンと胸を張って「チョモランマのベースキャンプさ」と応えます。すると彼は目を細めて、、、「そうかい、、、チョモランマまで行くのかい。オイラは、、、そんなとこ行ったことないぜよ」とこう応えてきます!!そうかもしれませんこの山に生まれた人はこの山がふるさとであって連山はるかなかなたに君臨するチョモランマは別の世界の様な存在なのでしょうか。

「じゃあ、気をつけて行きな若いの。ほれ、、この杖やるよ」

やまのおじさんは自分の杖といってもただそのあたりの手ごろな木の枝を自分で切り取った代物ですが、これがなかなか具合がいいのでした。

「ありがとう、おじさん、こ杖大事にするからね」

「ああ、おれの替わりにチョモランマに連れて行ってやってくれよ」

これが、どうもおじさんの願いだったようです。なぜならどう考えたってヒマラヤ連山の守り神は最高峰のチョモランマでしょうから。

「んッ、、、きっとチョモランマをこの杖に拝ませて見せるよ」

これ等の会話は全てフィーリングと手まねでやっているのです。この山のおじさんには英語は通じません。しかしお互いに充分分かり合えるからおかしなものです。こうして一日に小さな山を三ッつは越えて村から村へとわたしはゆっくりと足を運んでいきました。二度と膝を痛めてはいけないと覚悟してのトレッキングです。午後には体を休めておじさんからもらった杖にわたしは大好きな般若心経をナイフで彫りこみはじめました。これが思った以上に良いメディテイションになり、、辞められなくなりました。日が過ぎるごとに経文が杖に増えていくのを見るのは楽しいものでした。

時には初日と同じような獣道に近い下りもありましたが、これも充分に気をつけて歩を運び二度と膝を痛めることなくわたしは高度を稼いでで行きました。また時には冷たい川越もありました。通常は近くの山の人が使うだけの獣道しかこのふもとにはないのですからそれなりに険しいところもあるのです。

山に入ったら水はとても貴重なものですから、、山の常識として彼らは風呂を持ちませんでした!!体を洗うという習慣がないのです!!私の体にも垢がたまり始めました。叉のみが私の体にいついてしまってどうにもならないのでしまいには四〜五匹ののみは仲間だと思うようにして日々共存です。しかし靴下と下着だけは毎日洗って歩いているときに背中のザックにさおを立てそれに結わえ付けては日に当てて乾かしていました。しかし登山する人達は山に入ったら靴下は下山するまで洗わないとも聞きました。毎日とっかえひっかえ汚れたのをそのままもみほぐして乾かしては履くのだといいます。とてもわたしにはそのまねは出来ませんでした。飲み水と料理の為の水は皆が近くの流れから汲み取ってきては大事に使っているのです。食事はシェルパシチュウー。これは水に米といくばくかの野菜を入れていきなり煮込んでしまっておじや状にして食べるのですが、これしかほとんど食べるものがないのですから熱いシチュウーをフーフーとやりながらおいしくいただくのです。

山が深くなり谷間も切り立ち深くなってきました。その雄大な緑の谷間から、

「カッコー、、、、カッコーー、、、」

と聞こえてきました。澄んだ音色でした。噂には聞いたことがあるカッコー鳥の鳴き声です。わたしはしばし足を止めて感動しながらこの美しい鳥のさえずりに心を託しました。それにしてもここまで一人のバックパッカーにも私は出会いませんでした。ほとんどの旅人が高度三千余りあるルクラまでは小型機でカトマンドーから飛んでしまうからです。わたしは時に行きかうシェルパ族の娘や子供に笑顔を送りながら楽しんでゆっくりとやっています。ここまでですでに山を一五〜六は越えてきたでしょうか、平均高度は二千四百bぐらいになっていました。杖の般若心経もだいぶ掘り込まれてきました。結構見事です。三千メートルのヒマラヤ街道のメイン交易所というかナムチェバザールが近ずくにつれて時にはは登りも急激になってきました。後二〜三日でそこにたどり着けるだろうというときになって時々はるかな連山の隙間から万年雪をいただいたヒマラヤ七千メートル級の山々が垣間見えるようになりました!!これもまた感動でした。「待っててね、、行くからね、あんたのふところへときっと歩いていくからね、、、」こう念じながら足を運ぶわたしでした。

すでにわたしにとっては初めて体験する高度になっていましたからコバラムの登山隊長が助言してくれたザックを宿においてからの裏山百メートルを登る事はかっちりと守り実行していました。一人の山歩きです、助けはないものと思って高山病には気をつけなければいけないのですから!!

毎日たどり着く新しいシェルパ族の村はだいたいが十から十五棟の集落で、家にはおばさんと子供しかいません、それも女の子ばかりです。つまりだんなさんや男の子は出稼ぎに出ているのです。ヒマラヤ登山家たちのクーリー(荷物運び)のことをシェルパといいますがこれはこの山のシェルパ族から来たものです。彼らは片言の英語を学んで外国人登山家の荷物運びを主に仕事にしては稼いでいるようでした。これ等集落の二〜三軒がだいたいは我々よそから来たものに宿を提供してくれていました。コバラムの浜とおなじで住む家はその土地の素材だけですからこれ等集落を俯瞰すると山の一部に見えてまるで違和感がありません。つまり強制的に人をひきつけるマクドナルドの色合いはこの地にはないということです!!これが旅人をこの地に来させるひとつの要因にもなっているとわたしは思っています。ヒマラヤ街道入れば入るほどに自然と共生する人々の生き様に触れる事が出来ます。

エベレスト街道の通常の基点となるルクラ飛行場。

(これは山間の斜面を削って作られた坂になっている土の飛行場です!!降りる飛行機はこの斜面を滑降して登って行き着きあたりの断崖の手前で急旋回してやっと止まるのです?離陸する飛行機は斜面を土ほこりを上げながら全速で下の谷底へと向かって滑空して行き。谷間へ落下する直前に浮力を得てやっと飛び上がって前の巨大な山の斜面を旋回してよけて行きます。どう考えたって神業に近い操縦技術が要求されるでしょう。ですからいくつもの破損した機体がここには転がっていました!!)

 

 

日本人隠遁者

このルクラの村をやり過ごしてから、急に外国人登山者やバックパッカーが街道に増えてきました。豊かな白濁したヒマラヤの氷河から流れてくる谷川をこえて山道を左に折れたところに今夜わたしが泊めてもらおうと思っている日本人がやっていると言う家がありました。このことはすでにカトマンドーで下山してきたトレッカーに聞いてわたしは知っていましたから、それでは是非泊めてもらおうと楽しみにしていたのです。齢七十歳に届くかと思われる老人に迎えられて私はザックを置きました。この老人は身の回りの世話をする山の若い娘と二人で暮らしながら時に訪ねてくる旅人や登山家に宿を提供しているようでした。家の前の畑には凍害になって大菜のようにぼうぼうと伸びているキャベツがありました!!これはこの高地に少ない野菜を補う為に日本人が教えたそうですが、寒いから丸くはならずに伸びきってしまって味も大味なのですが、それでも青い野菜なのです。とってもヒマラヤでは貴重品になっているようです。それやジャガイモを米と一緒に煮込んだ例のシェルパシチューをいただいて一息着いていたら老翁が庭の縁台でごろりとくつろいでいるわたしの傍らにやってきて言いました。

「これは、、わたしが作った桃のワインですが、どうですか一口、、、おいしいですよ」

「いや、ぼくは酒は余りやりませんから結構です」

NYではバーテンダーを生業としながらも酒は飲まないわたしでした。ましてや旅先ですとてもそんな気にはならないのです。しかし老翁はなおも私に勧めます!!

「そんな事をおっしゃらづに、、トミザワサンですか。ちょっとやってくださいよ」

お年寄りの自慢の代物らしかったのでこれ以上断るのもかわいそうかなとか思いながら、、それでは少しだけと、琥珀色の液体を舐めてみました!!

「わーお、、おいしいですねえ」

そうでしょうともといって老翁の顔はゆるみました。舐めるつもりでちびちびとやっていたら、しばらくして急に酔いがまわってきて気持ちが悪くなって今度は腰が抜けてしまって動けなくなりました!!仕方ないからそのまま縁台に横になったまま私はうなっていました。軽い急性高山病にかかったようでした!!二時間ばかりしたら気分が元に戻りました。はじめて経験している高地でのアルコールですからもともと飲まないわたしには過激に利いてしまったみたいです。そして夜もふけてきたからそろそろ眠ろうかと思っていたらキャンドル片手に老翁がまたやってきましたから、四方山話をしていまいた。

おどろいた事に、わたしが五年前の旅で訪れていたインドのブッダガヤ、その地の日本寺にこの老翁はかつて五年ほどお勤めをしたのだといいます!!わたしはそこで渋谷上人と出会い日本禅の醍醐味を教えてもらったのでした。そんなこんなで我々の話は仏教論云々とお互いの現状の生き様に関してとか、もう話に止めどがありませんでした。老翁はブダガヤにお勤めした後に、、日本仏教会と縁を切って、この地にて余生を送ろうとしてやってきたようです。そして今老いて、何かとても淋しそうに目頭をぬらしながら自分の昔話をわたしに聞かせていました。そしてまた明日のこの家を心配しているようでした。

「あたしは老いました、、それでね困ったことにアタシには後継者がいないのですよトミザワさん。どうですかね、あなたに私の跡をついでこの家を守って行ってはもらえないでしょうかねえ?」

五年前の旅のクレタ島でババがトミ家の子になれといったのを思い出しました。そのときもまたこの時も、わたしは旅の途上であって、いまだに自分が見えていないときなのです。ですから、応えたくても応えられはしないのです。ただこのヒマラヤの緑と清流に囲まれて生きる事が出来たならこれはこれで地上の楽園には違いないだろうとは思いました。ましてや、帰るところのないわたしに、生きる目的を見失ってしまっているわたしにとってはこれは天の恵みの声であったのかもしれません。老翁はそんなわたしを見抜いて、そう言ってくれたのかも知れません。とてもありがたいとは思いました。でも、私は、まだ、自我の求めるままに前に行かなければならなかったのです。いまだ世間を捨てられるほどのわたしはこの時にもいなかったのです。

「ありがとうございます、でも僕には無理です。まだ旅の途中ですから」

この時にわたしはすでに三十七歳になっていました。十九歳の愚か者が人間志願をしてからそれなりに決めた道を歩き続けてきて今また何もなくなってしまっていました!!単なる、、地球放浪者になってしまっていました!!

「これからカラパタールまで行かれるとのことですね、是非それは行って来て下さいよ。ただ、この爺さんがいったことは考えてはもらえませんか。そしてお帰りになる時にはまた寄ってくださいよ。いい返事を待っていますからね」

とても真剣な老翁の言葉ですわたしは胸が詰まる想いでした。しかしここを出る時には、私は帰りにはきっとここへは寄れないだろうと思いました。なぜなら老翁に喜んでもらえるような応えはわたしにはもてないだろうからです。

 

お坊さんの接待

この日に世話になった宿には珍しく二親と子供が一人で三人が一緒に暮らしていました。晩御飯の時にはチベット仏教のお坊さんも来て五人で食事をしたのですが、次の日の朝にみんなもういるのかなと居間に入っていったらなんとそこにはお坊さんと宿の女将さんが一緒に寝ていました!!どうしたんだろうとあわてて外に飛び出したらぶっちょうずらして親父さんが食事の支度をしていました!!小学生ぐらいの子供も所在投げに淋しそうな顔つきをしているのです。一体何がどうなっているんだろうと考えたら、、アラスカの話を思い出しました。アラスカでは遠くから友人が訪ねて来たらその夜は女房を差出して接待すると聞きました!!どうもそれと同じ事がこの山の中で行われているのだろうとしか考えられない現実でした。しかしいい思いをしているのはお客と女将さんだけでしょう、、、親父さんや子供はたまったものではありません。そのように二人の顔には書いてありました。

 

ナムチェバザール

ヒマラヤ街道最大の村ナムチェへと着きました。たくさんの家、沢山の市場、たくさんの人達。ここが三千数百bのヒマラヤのふところ深くとはとても思えない賑わいです。ここで始めてヤクを見ることになりました。ヒマラヤの働き者はやたらに毛深くした牛さんのようです。荷物を運び人を運びぬんぬんとして貫禄いっぱいです。

またヒマラヤはチベット仏教に彩られた山々でもありました。仏陀を祭るストーパーやマニ石がいたるところにあります。ここの宿にザックを下ろしたら、、なんと、、そこにあのコバラムの仲間たちが五人で雁首そろえていました!!いきなり田中が両手を挙げて叫びました。

「イヨーッ、、トミさんやっと来たねえ、、俺たち飛行機でルクラに入ってから2日のトレッキングでここに来て待ってたんだよ」

「びっくりしたなああ、、もうッ、、、なんだよお前らもエベレスト街道トレッキングする気になったのかい?」

「そんなんじゃあないよトミさん。俺らチョットだけもう一度トミさんに会いたくなっただけさ、、だから後二日もいたらカトマンド-へと帰りますよ」

「せっかくここまで来てそれはもったいないだろうが」

「いやね俺たち別にトレッキングに興味があるわけじゃないんだから、、、一体山がどんなものかちょっと見に来ただけですよう」

博打好きのキャメラマン田中らしい言い分です。これもまた旅のスタイルでした。この時わたしはすでに三十七歳になっていてこの歳になってのバックパッカーは珍しいのです。彼らは皆二十歳を少し出たぐらいの歳ですから、私の弟達のようでした!!しかし彼らから見たらオジンのわたしがなにやら青い顔してもそもそと旅をつづけているのが心配で気なって仕方がないのでしょう。だからこうしてインドの南の果ての浜でであったのにもかかわらづに、カトマンドーからまたもこのヒマラヤのナムチェまでわたしに会いにやってきてくれたのでしょう。ありがたいやらこそばゆいやら面倒くさいやらとわたしとしては複雑な気持ちでした。なぜなら危惧したように田中たちはここでもまた仲間内で博打を始めたのですから!!

「ここまで来てやるかーそんなもの、、お山の神様に怒られるぞーお前ら、、、」

「またトミさん相変わらずお固いんだからねえ、、、チョットだけ気晴らしですよ、、ホラトミさんもやりましょうよ」

「やるかい、、オイラは修行中だ、、、、」

すでにアメリカに十三年もいて、、五年前には地球一週の行脚もしていて、、、それでいて女は買わない、博打はしない、、あげくに酒も飲まない!!いまどきこんな天然記念物のような旅人が居るものかと、私にしても彼らにしてもこれは驚いてしかるべきことだったようです!!この一見清潔に見えるわたしの現状には多々問題が内包されているようでした。それに気づかないのは私だけで田中君始め仲間の旅人たちは若くしてそれに気づいているから、、成長しないでただ歳を食ってるようなわたしが心配になるようでした。

つまり、女を買わないということは、人間を差別している事かもしれません!!だから娼婦とそうでない女性を分けて考えているのです。この結果わたしは娼婦に人間の尊厳を認めていないことになります!!これは差別になるのでしょうか?

また、博打をしないということは、明日への突破口を見つけられないということかもしれません。自分を賭ける事が出来ないのでしょう。そして酒を飲まないということは己の精神を開放できないということかもしれません。だから日々に溜め込んでしまい慢性胃炎にわたしはNYで陥っていたのでしょうか!!この胃炎については旅に出たとたんに解消されてNYへと帰ったらまたぶり返すという悪循環から逃れられていない愚かなわたしでしたがこの事実がいかにNYにいるときの私が精神的にアンバランスな状態にあるのかを証明しているようですね!!

とりあえづ仲間との再会は嬉しい事だったので、楽しく彼らと過ごしてから、登りと下りに分かれました。彼らはまたルクラまで下ってそこから飛行機でカトマンド-に帰るといういわば大名旅行でした。

 

エベレストビューホテル

このナムチェから街道を少し左にそれた山の頂に世界最高峰にあるホテルとして有名なエベレストビューホテルがあります。信じられないことにここにだけは電気もあるのでした!!自家発電をしています。一体どこの誰がこんなとんでもないところに、とんでもない一応はホテルと呼べるような代物を作ったものかと思ったら、オーナーはこの地に魅せられた日本人でした!!とてもノミだらけのわたしのような旅人が宿泊できるホテルではありませんが話の種にとコーヒーをいっぱいのみに立ち寄ってみました。目を疑いました、、、確かにホテルの様相を呈していてサービスも徹底していました。ここからは7千メートル級の連山と一緒にエベレストの頂も連山の果てに遠望する事が出来ました!!とても価値のあるものでしょう。

わたしは思いました、、、いつの日にかわたしに家族と言うものができたのならこのホテルに泊ってのレジャーに来たいものだと。その場合はルクラまで小型機で来てヤクとシェルパを雇って闊歩闊歩とここまで運んでもらう。これなら女子供でもゆっくりだから出来そうだと。

(この上の写真はエベレスト俯瞰模型とエベレストビューホテル、そしてそこから見たエベレストです。一番右の写真の一番左手に見えるのがチョモランマ=エベレストです)

テラスでひとり熱いコーヒーを飲みながら、よくもここまで歩いてこれたものだと我ながら感心をしてしまいました。足を痛めたルクサングの初日からすでにわたしは一ヶ月近くを歩いているのです!!通常の登山家なら二週間ぐらいの行程でしょう。わたしは足をことさらにかばいながら無理しないで誰よりもゆっくりと辿っています。

 

高山病の旅人

山肌の斜面の街道を深い谷底を見ながら行くと前から二人の女性バックパッカーが歩いてきました!!一人は顔中を赤い斑点に覆われてみるも無残な顔になっています。これは高山病にやられたのだなと思いながら近づいたら、カトマンドーで出会ったトレッカーでした!!彼女たちは時間がないからと飛行機でルクラに飛んでから短い日数でエベレストベースキャンプまで入ってみるいっていたのです。

「ワー、、、トミザワサンでしょう?真っ黒ですねえシェルパ族みたい」

「そういうあなたもどうしたんですか、、その顔は?」

「アタシねえ、高山病にやられちゃいました。だから友人はもういくのやめようといったのだけど悔しいじゃないですかここまで来ていて。結局ねえ友人は途中の村で待っていてあたしだけはとにかくベースキャンプまで行ってきたんですよう」

「それは凄いね、、でも大丈夫なんですか高山病のほうは?」

「きつかったは、とってもね。でも今下りにかかっているでしょう少しづつ楽になってきているは。、、その杖は一体なんですかカッコいいですね?」

彼女はわたしの般若心経を掘り込んだ杖に目を留めたのです。

「これね山の人に杖をもらったからね、、自分で毎日暇だから般若心経を掘り込んだんだ」

「トミザワサン,ふもとのルクサングから登ってきたんでしょう、凄いワー。もしかしてトミザワサンて有名な人なんですかア?」

「まったく無名ですよ。NYで絵描き道を十五年追いかけて挫折してしまった明日の見えない落伍者です」

楽しい立ち話をしばらくエンジョイしてから、おたがいのこれからの旅の無事を祈って別れました。彼女はまだ自力で歩けているからよかったのですが。歩く事も出来なくなったバックパッカーがヤクの背に乗って降りてくるのにも出会いました!!この地点でようやくに高度は四千メートルに近くなっていました。これからがホントのエベレスト街道です、気を引き締めてかからなければなりません。

この日私は珍しく前の宿で一緒になった外人バックパッカーと二人で歩いていました。偶然に同じ時間に宿を出たから,じゃあ取り合えづすこし一緒に行きますかと言う感じでした。ゆっくりとやってる我々にハーイと声をかけながら前の宿でやはり一緒だったスエーデンンから来たファミリーが追いこしていきました。ご夫婦と子供が三人です、、、したの男の子は小学生で上の長女が中学生です!!子供たちの靴は破けていて新しいのがパパのザックには結わえ付けられています。もう少しはいてから変えてあげようということなのでしょうか。それにしても長女の面がすぐれないのには、、、私は考えさせられてしまいました!!このハードなエベレストトレッキングを家族でやると言うアイディアは当然二親から出たものでしょうが、、それに子供たちを巻き込んで一体この子達はエンジョイできるのだろうかとです?きっとやり遂げた後には忘れられない思い出としてこの子供らの胸の内にヒマラヤが残る事を祈らずにはいられませんでした。

崖渡り

それから一時間余りも歩いたでしょうか、左手は深い谷底で右手には山の腹が突き出ています。と、そこに立て看板が見えました。このさき崖崩れの為通行不能、、迂回路はこの右手の山を一周する事と書かれています!!どうするかと我々は思案にくれました。多分先に行ったファミリーは当然この迂回路に入っていったでしょう。しかしわたしはこの道を前に進みたいと言う欲望を消せずにいました。

「どうするかな、、、俺は取り合えづどんな状況か見てもみたいし行って見ようと思うけどな」

「だったら、、、俺も行くよ」

かれもOKしたからたどって見ました。二十分も行ったところの斜面が見事に崩落していて山道が七十メートルほどかき消えています。これはとっても無理だよ引き返そうぜと彼は即座に言いましたが、削り取られた斜面にはところどころに木の根が裸になっています。これをうまくつかみながら行けばやれるかもしれないとわたしは思いました。わたしは結構わがままですからできたらわき道には行きたくないのです。かといって背中にはザックを背負っているのですから、これはきわどいところでした。

「まず、おいらがやってみるから渡れたらお前もこいよ」

「、、、、、」

ほとんど七十度に近い斜面に足を踏み入れてみました。むき出しになった地肌はもろく柔らかくて足場は必ず木の根とかに頼らなければとても体をこの場にキープしておくのは難しい有様です。数歩めに手にしたむき出しの木の枝がそのまま抜けそうになりからだがずり落ち始めましたが下の木の根に足がかかって止まりました。しかし誘発された上の土砂が思いっきりわたしに襲い掛かってきました。それでも進みました手ごたえはあるのですからいけると覚悟して眼下の数百メートルの谷底に目をやります。

「ウッワッ、、、」

こんなもの見ないほうがいいとか身震いしながら考えてことさらに斜面に体を這いつくばらせ、よこいざりに一歩、また一歩と足場を探しながら移動していきます。無言の格闘数十分とうとう対岸の山道の切れ目までやってきて、、、、見事に両の足で彼岸に立ったわたしでした。やったぜーッ、、、、とばかりに叫んで向こう岸にいる相棒にお前も同じようにしてやってこいと声をかけました。そうかなあとか不安げな彼でしたが結果成功しました!!余り人には進められない無謀行為です。

崖崩れ

翌日には私はまたいつものひとりになってのんびりと足を進めていました。右手深い谷底の広大な平地には川がくねって流れているのが見えます。その向こうにそびえる巨大な崖というか山の斜面には細い獣道みたいなものが入り組んで見え、巨大なキャンバスに描かれたフリーのラインのように感じられ、わたしにはこれは自然と人間が関わって作り上げた壮大な一服の作品だと思えました。そのはるかにはいくつものヒマラヤの屋根、7千メートル級の万年雪の頂がその雄姿を惜しげなく太陽にさらしています。わたしの内部の興奮は日々に足を運ぶごとに徐々に高まっていきます。地球の屋根のふところ深くへと入っていける喜びです。地球最高峰をほとんど目線に捉えることができるといわれているカラパタールの頂への期待です。

山道は前方で突き出た小山のような崖を左回りに迂回しているようで見えなくなりました。その巨大な岩山の上に異様なものが見えました。山の悪魔が逆行をあびながらその乱れる豊かな毛髪を風になびかせているのです!!と、思ってドッキリしたのですが、よく見るそれは一頭のヤクでした!!たくさんの黒毛に覆われたその姿は、ただの一頭で崖のとったりに四肢を張ってたちつくす異様な威圧感は、それをしたから見上げている私のポジションのせいだったかもしれません。わたしは思わず彼に挨拶をしていました、せざるをえなかったのです!!

「ハイ、ヤクさん、、こんちは、、、、どう見てもあなたはこの高地にいる数百等のヤクの親分ですね、、!!ここら辺一体を制圧して監督しているのですか。オイラは始めてこの街道にやってきたけれど、カラパタールの頂五千四百五十五メートルまで行きたいんですよ。あなたの足元をと通っていいですか!!」

そう声をかけながら私はその崖の小道を回りきりました。黒光りする大きなヤクは微動だにせず、そんなわたしを目の端に捉えていたようでした。背のザックの上では今朝に谷川で洗った下着がゆれています、が、移動中にはだいたいが乾ききりませんから、次のシェルパの家でおばさんが炊事するか