episode 17  『バンコク』 MANDALA

1993〜2007 LIVE in thailand

1991年、パーフェクトストームの後に22年振りに日本へと帰り暮らしましたが、わずかに1年半でレストランマネジャーとしてバンコクに移住しました。それ以来14年間、2007年現在も私はバンコク在住です。52歳になって初めての結婚をして娘が生まれました。私は62歳になりました、娘彩は8歳です。再び青春の門へとひた走る毎日です。

 

目次

1991年                                                                              パーフェクトストーム遭難、無礼な商社マン、コスモ婚約、友人K,友人栄、幽霊坂、、石井木工所、タカコの嫁ぎ先へ、、いだき総帥、沖縄霊の急襲、いだき脱退コスモ婚約破棄、バンコクへ、

1993年                                                                               経営者K、カーニバル焼肉立ち上げ、大工、パジェロ2ヶ月で売る、チュティマ、歯医者、出資者曰くもう占めてくださいこの店は儲かりません、

1994年                                                                                狂牛病発生、わたしのサラリー日本で預金?、

1995年                                                                                セントラル火事、チュティマ辞める、ギン誹謗ばら撒く

1996年                                                                              スカイトレイン工事着工、中田先生、ふとどきな宝石商、赤字経営、日々に家賃支払い、経営者K私の前の机に足を投げ出す!!

1997年                                                                              初婚、ミニマート、スリヤーの死、ヨットマン植物人間、

1998年                                                                              彩誕生、この世の極楽、二親の幸せ、

1999年                                                                              彩を中心に世界は回る、愚か者が人間になる、女房との葛藤、

2000年                                                                              パーフェクトストーム上映、セバスチャンユンガーの欺瞞、

2001年                                                                              NY同時テロ、南、

2002年                                                                              カーニバル焼肉クローズ、経営者K私の8年間の未払いサラリーを無視?、無一文路頭に迷う、パーフェクトストームへの弁明を書き始める、西村、イサーン、ふとどきな日本人私の前のテーブルに足を投げ出す!!チョンブリ、胃潰瘍、胃癌宣告、入水を考える、

2003年                                                                              鮨忠&カーニバル焼肉再オープン、経営者K追放、新経営者鮨忠の福島オーラーを放つ人格者、福島により10年ぶりに日本の温泉に浸る、狂の偶然、幸の偶然、

2005年                                                                              群馬松葉会総長以下親分衆20数名鮨忠で宴会、秘境ピーピー島ヘ彩と福島と行く、女房殿浮気の子を出産シムかわいい、

2006年                                                                              鮨忠&カーニバル成功、NY同時テロ自作自演!!、ネオコン、軍産複合体アメリカ、フリーメイソン、家族4人!?、

2007年                                                                      日々是好日、

 

1991年 

パーフェクトストーム遭難、無礼な商社マン、コスモ婚約、

アメリカをベースにしての美術探求22年。その間の世界放浪。そして美術探求挫折。屍になってしまった精神のわが身をせめて故国日本へ帰すべくNYから単独ヨットでの船出断行。それが1991年10月(46歳独身)の時でした。しかし北大西洋航海中に出会った20世紀最大の海洋ストーム(波高ビル10階に相当)に呑まれて転覆、単独タンカーに救出され、着の身着のままに空路故国へと帰りました。この体験は「航海記録」にすでに書いてありますが、余りの天海荒れ狂ッた果てに6度の360度転覆をビル10階ほどの強大崩れ波によって受けたショックは数年消える事はありませんでした。自分の家でもあったヨットを捨てて22年ぶりに帰った東京にはNYでの友人たちがいました。ヘルスクラブのオーナー、歌手、ジャズピアニスト、NY公認会計士、商社マン、彼らと連れ立って商社マンのおごりで銀座のクラブに出向いたのですが、どういうわけかこの商社マンはNY以来時々私に不快な思いをさせているのです。しばし皆と飲んで団欒した後にこの席での彼の一言は、

「トミはえらい経験をして生きて帰ってきたそうだな。とんでもない大波に何度も呑まれても船は沈まなかった、時化の外洋でタンカーの縄梯子に飛び移って助かったのも奇跡だ。お前ね、それだけの生きる死ぬの経験をしてきたって言うのに、何か、目の前のお前はナンも成長していないねえ、、、え、トミ!!」私は言葉をなくしました、反す言葉がないのです。それにしても無礼な商社マンです。残念ながらその後の彼の運命には(狂の偶然)が多々起こりました。(商社の部長職追放、左遷、また左遷、連れ合いの死)まだあります、この商社マンがNYにいたときに私と囲んでいるコーヒーテーブルに汚い足を投げ出して私を威嚇しました!!そこでも「狂の偶然」は起こったのです(その翌年には彼の1人息子がNYにて、まだ10代というのに亡くなりました!!)。

この同じ席にいたジャズピアニストはNY時代に10数年もわたしの妹だったのですが船出前に突然私と結婚するんだと言い出しました。それは人類を救うためだといいます。彼女は日本の新興宗教に凝っていてどういうわけか私に救世主の要素があると勝手に思い込んでしまったのです。ですから彼女と結婚して日本に還り人類を救うために働かなければいけないと断言しました。私には皆目分からない話でしたから断ったのですが、そうしたらまた彼女が言います。

「あたしの言う事を無視してトミが船出をしたなら、トミに憑いているたくさんの海で死んだ人達の怨霊が必ずトミを深い海底に引きずり込むのよ。死んじゃうのよ、それでもいいの?そのデッドラインは1991年の11月の1日よ。、なぜならこの日にはアタシとトミが結婚するんだってお告げがあったのよ。これはね確かなお告げなのよ、だから1人で船出なんかしないで、あたしといっしょに日本へ帰ろう、、、ね、、トミ」

彼女のこの言葉を無視して私は船出をしました。そして彼女が言ったデッドラインの日までに何度も船は大波に呑まれて転覆を繰りかえし、それでも死なないわたしは11月1日まさにその日に荒れ狂う外洋の最中に来てくれたタンカーの縄梯子に決死の跳躍をして信じられないことに私はその縄梯子にまったく偶然に取り付くことが出来て生還したのです!!つまり彼女の予言は最終的には当たらなかったにしても、ほとんど99%は実際に私に降りかかってきた地獄図だったのです。私を拾ったタンカーは2週間をかけて黒海のルーマニアまで航海してブカレストの日本大使館員が私を引き取り半強制送還で日本帰国を命じました。このフライトでトランジットしたフランクフルトの空港ホテルで私は日本にいる彼女に電話をしました。事の顛末を伝えて明日には成田に着くと言ったのです。彼女の答えは、

「あら、どうしたの死ななかったのおかしいわね。半月前のあたしが言ったトミのデッドライン、11月1日(彼女の40歳の誕生日)に確かにトミは海で死んだとテレパシーが有ったのに!!」これは二重遭難したヘリのレスキュー隊員リックスミスの死のテレパシーがわたしと間違えて彼女に届いたものと思われます。その結果、余りの恐怖の体験に腑抜けになって帰国したわたしは、全てに抗う力をなくしていました。だから彼女の言うように生きてみようと決めるしかなくて東京で婚約したのです!!

友人K,友人H、幽霊坂、

私がアメリカで人間志願だとかわめきながら、ほとんどヒッピー然として絵とか旅に明け暮れていたこの20数年間に日本の古い友人たちはシッカリ働いて基盤を築いていました。そのひとりKは学生時代にとっても私に良くしてくれて助けてくれたものでした。ですから彼には(幸の偶然)が起きていたのです!!彼は美校時代の後輩で車の部品会社のお嬢さんと結婚しました。そのおかげで彼が望んだ自動車関連の仕事に入れて、この20年間で、自動車レース界では少し知られた人間になっていました。大手自動車会社が彼に年間5億を支払い海外レースの監督を依頼していたり、また、F-2レーサー「ユニバーサル」のオーナーだったりと華々しい活動をしていたのです。その古い友人のKが、まったく裸で帰ってきた私に発した言葉がふるっていました。

「何か大変だったみたいだな、ところでな言っておくけど手助けする金はないぜ。飯ぐらいだったらいつでも言ってくれご馳走するからよ」

私が何も言わない内に彼は私に釘を刺したのです、、、!!私は戸惑いました。こんなふうに喋って決め付けるような奴では昔はなかったのに、多分この20年間のビジネス活動のあいだに中国人の親譲りのしたたかな対人関係会話を身につけたのかと思われました。

あとの友人は対照的でした。Hはタンカーの私のレスキュ-代金の約100万円を一言返事で3日待てよ用意するといってくれました。しかし後日このレスキュー代金は海の国際法によって支払わなくて良いことになりました。今1人のNYからの友人は東京三田で美容院を経営していたのですが、丸裸の私に衣服と幽霊坂の上にある彼の店の寮のひと部屋を唯で貸してくれました。しかしこの部屋がやたらに霊魂が漂っていて私を悩まし始めました。眠れない日が続くので訪ねてきた婚約者のコスモにそのことを伝えたら、

「いるわよ、この部屋にはうじゃうじゃいるは。でも大丈夫よ、あたしがいるグループの総帥のピアノCDを小さくかけて寝たらもう出てこないからやってみて」

確かにそのCDを邪魔にならないように蚊の泣くほどの音量でかけて眠ったら熟睡できたのです。私の海での災難を予言した彼女は(いだきグループ)という新興宗教に入っていて、その総帥が人類を救う救世主だからわれわれは彼のために動かなければいけないといいます。総帥はピアノを弾きながら人の心を慰め人類を幸福に導くのだと彼女は言います!!まずは頭からその手の話を信じない私なのですが、事ここにいたってはコスモの言にしたがうしかありません。ですからとにかく彼のそのコンサートとやらをとにかく聞かせてくれ、話はそれからだといって会場に出向いてみたのです。彼を信奉する沢山の信者が集う会場のステージで総帥は見事にピアノ演奏を繰り広げてくれました。ステージ上には彼のオーラーが漂い波打っては充満していました。正直に驚いた私です。この人物は確かに尋常でないパワーを持ってる人だと直感しました。だったらコスモの言うようにこのグループにフォーローしてみてもいいだろうと思いました。

石井木工所、タカコの嫁ぎ先へ

コスモの父親は読売の芸術欄を担当している新聞記者でした。その父親にあたしを嫁に欲しいとちゃんと伝えてくれとコスモの懇願でしたから、面と向かってそのように挨拶してみました。私は47歳になっていました。コスモ40歳です。

「もう充分に生きてきた年なのだから、堅苦しくならないでゆっくり気ままにやってください」

にこやかにそう言って軽く受け流された私です。

とりあえず三鷹に二部屋のアパートを借りて婚前同棲を始めました!!そして仕事を探さなくてはと新聞を見たら蒲田の石井木工所が和家具見習いを求めていましたから大工が根っから好きな私はそこで働き始めました。丁度コスモの友人が軽自動車が車検切れになるけどよかったらもらってくれないかといってきたのでこれ幸いにといただいて、毎朝5時に起きて環状7号線をフンフンとぶっ飛ばしては蒲田の木工所に通っていました。ある日に目黒から茶室に備え付ける和家具の注文が入りました。注文主を見てみたら、、どうもひばり御殿のうえの御殿です!!名前は、、何のたれべえ、、でした!!これは、このときより7年前にNYで一緒に3年も暮らしていた姫タカコが嫁いだ日本三大漁業会社のひとつの財閥の家でした。7年前に私を裏切ったタカコ。その苦しみに絶えかねて地球一周1年3ヶ月を放浪せざるをえなかった私です。そのタカコのいる御殿からの家具の注文です。こんな偶然が有るものかと思うほどに驚いた私です。

「工場長、大変ですよ。この茶室の注文主の家は俺がNYで三年暮らした女が俺を振って嫁いだ家ですよ」

「バカ言ってんじゃあねえよ。お前の昔の女が財閥にとついでいて、なぜ、お前はうちの木工所の大工見習いなんだよ。エッ、おかしいじゃねえかよ」

「、、、、別におかしくないですよ工場長。俺はヒッピーみたいな生き方をしてきたからこれが現実なんですよ」

「ホントかい、、じょうだんじゃないんかい」

「まったく本当ですよ。行きましょう御殿へ、懐かしいですねえ、あいつ元気でやっているのかなあ」

「そんなこと言ったてお前、その彼女に出っくわしたらどうすんだよ、エッ、こまるんじゃあねえのかい」

「うーん、別に困りもしないですよ、もう昔の話しだし、出あったら、、、やー久しぶりだね元気にしているかい、、って聴いてやりますよ」

目を丸くして疑っていた工場長もようやくこの話を信じてくれて、イザ家具が完成して取り付けに3日間目黒に通う事になりました。ところが離れの茶室の現場に出てくるのは家具を注文したおばあちゃんばかりで、若奥さんのタカコはついぞ出てこないのです。

「オイッ、トミザワよあれじゃあねえのかい、ホラ母屋の縁側に出ている人だ」

工場長が言うから見てみたのですが、見るからに風采の上がらないお手伝いおばさんみたいな女性の横顔が見えました。

「違いますよ工場長、アンナばあさんではないですよ」

そうして仕事が終わってしまってとうとう因縁深いタカコに合えずでした。しかし数日してよく考えてみたら、このときタカコはすでに45歳にはなっていたはずだから、あの姑の怖いおばあちゃんにいびられて、アンナ風采の上がらないおばさんになっていたのかもしれないと思いました。なぜなら、何度か町で出会ったとゆう友人の話によると、数年前のタカコが二人の子供をつれてデパートの惣菜屋で買い物している姿は、それはやつれてみすぼらしくとても財閥の若奥様には見えなかったとのことです。

いだき総帥、沖縄霊の急襲、いだき脱退コスモ婚約破棄、

コスモといだきの総帥のコンサートの追っかけをやっていたら、次はオキナワで24時間ぶっとうしのコンサートを総帥はやると言い出しました。見習い大工に3日間とまりで沖縄なんて費用が有るわけがないといったらコスモはどうしても行くんだというので何とか工面して出かけました。戦争末期に沢山の日本人が飛び降り自殺をしたというあの有名な崖のうえのこうえんで総帥は24時間寝ずにピアノを引き続けました。この時の総帥の話で、その因縁の崖は降りないようにと。なぜなら沢山の怨霊がいまだに成仏できずに渦巻いているからと。そう聞いたらあほな好奇心に動かされる私は、1人崖の細道を下ってみました。うっそうたる木々に隠れて竪穴防空壕があり、ここに鬼畜米兵を避けてたくさんの人たちが逃げ込んだという痕跡がいたる所に見られました。身につまされながらモット下っていったら突然に空気が重くなり怨霊のうねりが轟々として私に襲い掛かってきました!!どうして、私が、こんな目にあうのかと考えてしまいました。思いついたことは昨年までの二十二年間を私は鬼畜米兵の故郷アメリカにいたということです。多分私のにおいはどっぷりとアメリカ化されてしまっている体臭だったのではないか、だったら怨霊が怒り狂って私に襲い掛かる意味が分かるというものでした。からだが金縛りにあったようにしびれてコントロール出来ずに私は崖の途中のジャングルの中で湿った土くれの上のうずくまり心も体も嘔吐をおぼえて苦しみうめきのた打ち回りました。やバイ、何とかしないと、このまま怨霊たちにわたしは息の根を止められてしまうだろう。恐怖が頭の中を駆け巡りました。はるか下方には太陽に照らされて輝く青い沖縄の海があります。生い茂る木々の葉の合間にそれを目にした私はなんとしてもあそこまで下りなくてはと思いました。あそこにはもう怨霊はいないだろうと確信したからです。歯を食いしばり身を捩じらせ恐怖に血をにじませながら転がり下りました。2〜30分もかかったろうか、やっとの思いでジャングルを抜けて太陽のしたのせせらぎの岩場に降り立ちました。ここでようやくに渦巻く怨霊は私を開放したのです!!なんという恐ろしい力と恨みを持った霊たちかと思いました。だからこそ総帥はこの崖下に足を踏み入れるなと言ったのでしょう。黙って素直に聞いておけば良いものを抗ったばかりに私は恐ろしい恐怖をあじわう事になってしまいました。考えてみたら私の航海もこれとおなじにコスモの言葉を無視した事から始まったのではなかったか。コスモのテレパシーと総帥のテレパシーは相通じているようだから。やはり船出前にコスモが言ったように、私には海で死んだ沢山の怨霊が取っ付いているのだろうか、そうとしか思えない現実でした。

いだき総帥とその幹部たちは全員がかつて統一教会にいた信者だったようです。そこを脱退してピアノを弾く総帥を立てて(いだき)という新興宗教を起こしたのです。しかし私は何度も総帥の講演を聞いている内にしらけてきました。人類を幸せにするのは大いに結構だけど、何か、ぴんと来なくなってしまったのです。それは真摯な信者のコスモが我々の生活が大変なのにいだきと総帥の為にはたとえば借金をしてでもお布施をするから、我々の生活はまた苦しくなります。何しろ私は木工所の大工見習いなのですから。そういうことも手伝って20数年ぶりに帰った日本で1年が過ぎる頃には、いだきにも総帥にもコスモにも興味がなくなってきました。

ある総帥の講演の日にこれを境にして二度とこのグループの講演には出席しまいと決めました。つまり脱退です。そういう目で私は総帥を見ました。さすがにオーラーを放つ総帥です、いきなり私の心のうちを見抜いたようです!!そして形相を鬼のようにして私を睨みすえ威嚇するのです。私は思いました、これですっきりしたと、この程度の総帥ならはっきりと見切りを付けやすいと。私は心軽く会場をあとにしました。同時進行でコスモとの間もおかしくなってきました。なぜなら彼女が崇拝する救世主に私がしらけてしまったのですから、コスモとの会話が弾むはずがありません。

「だからさコスモ、、分かるだろう。俺たちは信じて追いかけるものが違うんだよ。俺にはもう(いだき)はいらない。俺の内にあるインドの香りを放つ小さな仏陀、それだけで俺はいいんだ。だからこれ以上同棲していても意味がないと思うよ。近いうちに俺たちは別れ様か」

厳しい表情で私ののたまわりを聞いていたコスモですが、どうも現実にはそのようだから仕方もないかという感じでした。

「そうね、、、仕方ないわね、、いいわよ」

これで俺たちははっきり終わったと感じました。そもそもはじめから私はコスモに女は感じていなかったのですから。唯パーフェクトストームでの予言がほぼ的中した事に恐怖を感じて仕方なく一緒に暮らしてみたのですが、やはりめっきはすぐにはげるようでした。そのときを同じくして友人Kがバンコクに焼肉店をオープンするから私にマネジャーとしていかないかといってきました。焼肉屋にもマネジャーにもまったく興味のない私でしたが、久々に帰った日本でまるでエイリアンのように大工見習いしていて、また愛のない冷めたコスモからにげるのにもいいかもしれないという不純な軽い気持ちでこの話に乗ることにしました。

1993年 バンコクへ、

バンコク行きの話をコスモにしたら、それまで落ち着いて淡々としていた彼女が急変しました!!この間別れることに同意したばかりなのに、今度は別かれないというのです。また別れることに同意したおぼえもないと言い張り、わたしと一緒にバンコクへといくと言い出しました。ここでまた泣き叫ぶ彼女を振り切って私はバンコクへと飛びました。

私が彼女を泣き叫ばせるたびに海を介して私と関連を持った人が死ぬのです。まずはNYシティアイランドで彼女が船出はするな自分と結婚しようといったのを振り切って泣く泣く1人日本へと帰った日です。この日に日本のレーサー多田雄幸がシドニーで首吊り自殺をしました。次には予言の私と彼女の結婚日(コスモが勝手に決めた日、彼女の40歳の誕生日)この日には空軍州兵のパラシュートレスキュー隊員リックスミスが私のレスキューに関連して二重遭難をし大西洋に消えました。そして3度目がまさにこの時です。わたしが泣き叫ぶコスモを三鷹のアパートにひとりのこしてこの身を機上にゆだねた日にパーフェクトストームの最中に私と菩薩羅号の傍らに来てくれてレスキューは出来ないが明日コーストガードが来てくれるまでお守りしているからゆっくり休めといってくれたあの本船が、この日に北大西洋を襲っていたマザーオブオールストームズに飲み込まれて、かつて私をパーフェクトストームの最中にあの時化の外洋で視認した33人が海の藻屑と消えたのです!!この不思議な偶然の連動は一体何を意味するのか。コスモが私を死ぬほど憎んだ時、私でなくて、私の海の友人たちが死ぬのです、どうして!!??わかりません。

ホコリと喧騒とゴミの街バンコク。この街にだけは二度ときたくないと思ったのに舞い戻ってきた私です?

                                                             経営者K、カーニバル焼肉立ち上げ

Kは私の学生時代の友人です。しかしそれが方や社長私はスタッフと立場がはっきりと分かれたのですが、どうも私にはその意識が希薄のようでした。ですから奴がやたらに喋り捲るのです!!

「世の中には俺のように人の上に立つ人間と、お前のように人に使われる人間とに分かれるんだ。どうもお前は店のこととかマネイジメントにはまるで興味がないようだから言っとくけど,店の運営や料理の事については一切口出ししないでいいから。日本語の出来るタイ人マネジャーと料理人を雇うからな、お前はただタイ人にごまかされないように金の管理だけをシッカリやってくれればいいから」

つまりそのほかのことはやらなくていいというのです!!実務サービスについても口を挟むなというのです。これくらいはっきりと私を侮辱する奴が学生時代の親友だったとは正直驚きを隠せない私でした。

 

 

 

『バンコク』 MANDALA

バンコクコージー
ガラス窓の向こうは絢爛としか言いようのない、はじける光と媚を売る娘たちの笑顔であふれていました。彼女たちは誰でもいいからこの体を買ってくださいというシステムのステージにたむろっているのです。どうしてこんな事が現実なのだろうか。どうして多少のお金を払ったら誰でもこの娘たちとベッドルームにいけるのだろうか、こんなことが人間に許されるのだろうか。わたしはとまどいながら彼女たちから投げられる微笑をふくんだ視線に射すくめられていました。

フリーターで世界を放浪して20数年、バンコクに流れ着いた私は48歳になっていました。いくつかの恋をして無残にやぶれ結果独身でこの年を迎えたわたしでした。その理由は簡単です。わたしにとっての結婚とは男子が自分の道で生計を建てられるようになって初めて出来るものであって、、、ということは、わたしは未だに道を見つけていないから結婚できない事になるのです。そして今までの放浪の間の私の女性観は、女性とは買うものにあらず恋をして始めて触れる事の出来るものなり。ほとんど、、そんなふうに念じて生きてきたわたしが、ようやくこの年になって生理の都合上とか言い訳を自分にしながら、この信じがたい光芒を放つガラス窓の前にいるのでした。心臓は高鳴り彼女らの目線に出会えばあわてて目をそらしてしまい、また、おそるおそる目線を上げるという思春期の少年のようにおどおどしたわたしがいました。

わたしはここに愛を感じたいと思って来ているのです。この年になっての一人身は淋しいものがあります。時には、たとえ瞬間であってもいいのです、出来たら彼女らの心の片鱗に触れたい、すがるような想いでわたしは彼女たちの生身の肌のぬくもりに触れるのです。

「おじさん、アタイがお嫁さんになってあげてもいいよ」

「、、、、、、!!」

仕事が終わってアパートに帰ると、だいたい彼女たちには男が待っているようです。タイ人だったり西洋人だったり日本人だったりするのですが、わたしの知り合いの日本人の若者Dがここの娘と同棲をしていました。彼が言うには、彼女たちは仕事からかえって来たらほとんど必ず彼を求めるそうです。金で売った体にバランスを与え、清めるように激しく、、、、、、、。

2
本来交わりとは子をもうけるためにあるのでしょう。それを金のために酷使したら精神的にも大きなリスクを払わなければならないでしょう。だいたい5年ぐらいで彼女たちの体は輝きを失ってしまうようです。

ここの彼女たちのほとんどが北部タイからきています。何がしかの金で買われて見たことのない光の渦のバンコクに若い体を削りながら出稼ぎに来ているのです。田舎の両親に金を送りながら、うまくいけば家を建ててやって、そうして病気にもならずに幸運にも年季をまっとうできたのなら田舎へとかえって、土地の人とだいたいが結婚して子をもうけます。

わずかに2時間の虚構の愛。それでも倫理と葛藤の狭間に泳ぎながらつかの間、母の海にたゆたう。欲望と仕送りの相対関係はこの街の夜を彩りあせることを知りません。

別れ際、

「おじさんの幸せ、アタイ、祈ってるから、、、」

「ありがと、、、君もね」

この言葉をラッキーにも、もらった時は虚構のインスタントラブでもみのりがあったとわたしは思い満たされて、また煤煙の街の仕事にかえってゆきます。

テーメー
と俗に言われる、システムに拘束されない男女の出会いの酒場があります。
スクンビット道路のアンバサダーホテル近くの地下にあって、ミッドナイトにバンコクに長逗留している西洋人がわんさとたむろしていて、その中に7〜8人の日本人も見つけることが出来ます。だいたいが覇気のないよどんだ目つきに陰湿な欲望のほむらをちらつかせています。カウンターやボックスに陣取っている娘たちは、別にこの店には拘束されていないフリーの客に等しいあつかいであるから男供はここでは娘を選ぶことは出来ません。まずは娘が客を選ぶのです。つまり西洋人専門とかアラブ人専門とか日本人専門とかに娘たちのほうで色分けしているのです。

これがいいなと思って目線を向けても知らん顔されたら相手にされていない事になり、目線が絡みつづけたらまずはOKということになります。ケチりたい日本人のオジンは札束をひけらかしながら明け方2〜3時ごろまで粘って、売れ残っている娘を相手に足元を見てたたきまくり、通常の半額以下でことはすんだよと自慢します!だが、朝帰りをタイ人女房にとがめられたオジンは一物

3
を食いちぎられそうになり、かろうじてうらみの般若の口元は太もも内側にがぶり!!その紫色の歯形をさも銅賞のごとくに人に見せるタイ化した神経。

また、ある種の日本人はここにどっぷりとつかり、近くのモーテルで朝死体になって発見されました。これの真相はテーメーの娘との交わり中に極楽浄土へ向かって腹情死したのか、もしくは乳房に塗られていた致死量を超える睡眠薬を舐めまくったか、定かではありません。リゾートビーチパタヤでは毎年5〜6人がこの手の睡眠薬で極楽彼岸へと旅立っています。

とりあえずこの手の事件がおきないのはバンコクの歌舞伎町と言われるタニヤ通りの日本人向けカラオケバーですが、しかしここの娘たちはあわよくば日本人のお嫁さんか愛人になろうと手ぐすねひいては心と若い体と愛とお金をはかりにかけながらの駆け引きを繰り広げるのですから、100人いたら100人用の熾烈な愛憎ドラマが日本人客とのあいだに繰り広げられるのです!!
まずは出会いの洗濯、ショーツから靴下までのアイロンかけ、これでだいたい日本から来たばかりの初心なお客は感激してしまいます。だって、かつて経験した事のない女性のしぐさなのですから。痒いところに手の届く優しい気配り。これ等のサービスはほとんど彼女たちのマニュアルになっていて誰でもがすることなのです。これが相手が落ちるまでは営々とつづけられるのです。単なる愛人でいる間が華なのですが、結婚して子供でも出来たなら様相は一変します。しかし、、、それでも、、割れ鍋に綴じ蓋、、、それなりのぬくもりをもった家庭が出来上がっているようですが、とうぜん憎しみあったあげくに離婚する人達もいます。


かつてわたしは16歳から20歳まで楊貴妃に強烈なプラトニックラブをしていました。ところが20歳になった正月に始めて我々は二泊三日の箱根ドライブ旅行に出かけたのです。楊貴妃の母親がこの遠出を許してくれたのです。結婚前の初心な我々の始めての体のふれあいが、ここに用意されようとしていたのです。わたしにとっての高揚感はイカばかりのものだったでしょうか。1月1日新春の陽光に照りかえる相模湾を左手に見て眼前には箱根山の濃緑の威容が聳え立ち、傍らには楊貴妃、ハンドル握るわたしの手はいかにも軽やかだった事でしょう。そのせつな彼女はお腹を抱えて助手席にうずくまり激しい嘔吐を始めました!!これがつわりだったとは性知識に乏しかった私には分かるはずもないことでした。わたしが五年間おもいつづけた楊貴妃は、これきり、私の前から消えました。

どうして相思相愛だった我々が別れなければならなかったのか、わたしには皆目分からないのです。それから五年間いつか楊貴妃はわたしのところに帰ってくると待ち続けました。そのあいだに楊貴妃は結婚してすでに二人の子供がい


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るという噂が耳に入ってきました。単細胞きわまる私は、、だからナンなの、それでも楊貴妃はおいらのオンナさ、きっと帰ってくるさ。

そうしてわたしが渡米(仕事と留学)する直前に、楊貴妃が訪ねてきました。二人の可愛い娘の写真を見せられ、ただ泣きじゃくりごめんなさいを繰り返すだけの彼女でした。大事にその子達を育ててくださいと伝えてわたしはサンフランシスコに渡りました。数ヶ月して、そこへと彼女は連絡をくれました、わたしのところへと二人の子供をつれて来たいと!?、、、、、、考えた末に私はOKしたのですがその返事は、、、やっぱり、、、アメリカへは、、いけません、、!!でした。こうしてカッキリ10年間を費やしたわたしの青春プラトニックラブはようやくに終わったのです。

わたしは楊貴妃を想うあまりに女性を知らないままにシスコで26歳になっていました。誰が聞いても天然記念物に等しいような単細胞でしょう。これがわたしだったのです。それから始めて楊貴妃以外の女性にも目が向けられるようになり、シスコで筆おろし(初体験)をしてN,Y,へ渡り30歳になりまた恋をして日本人姫と同棲しました。この時には4年暮らした姫が私のパリ留学に合わせて密会を重ねていた星の王子様と結婚する為に、わたしパリ到着と同時に手に手を取ってN,Y,から逃げ出していました。余りのショックに自己コントロールをなくしたわたしは、そのまま世界一周放浪の自己探しの旅に出るしかなくなってしまいました。しかし、アフリカ、サハラ、ギリシャ、中東と巡ってインドで禅メディテイションに出会い、ようやくに自己を取り戻せたわたしでした。

その結果私は二度と自分から女性には惚れることが出来ないという悲しい宿命を自分の感じる恋の身勝手さを棚に上げて背負ってしまう事になりました。そもそもわたしが命と歌い上げた、この楊貴妃と姫は奇しくも両親が大陸の人であったらしいと、50歳を過ぎてようやくに解釈したわたしです。そのことによって二度ともに我が心の臓をえぐられる思いだった狩猟民族らしいこれ等の別れ方にも、それなりの納得をしたものです。これがわたしに定められた因果なのでしょう。


バンコクに来て4年が過ぎました、なんと、独身のままに50歳を過ぎてしまったのです!!楊貴妃が突然に消えた20才から4年間は東京で美術専門校に通いそれからの10数年間はNYで絵描き道を追いかけて38歳で筆を折り道に挫折、、それ以来道が見えないわたしでした。バンコクでは生活のためにレストランのマネジャーをしていました。そして51歳になったとき、突然に強烈なインスピレイションが湧き上がってきたのです。

それは来年には、このわたしが嫁を取るというものでした。プラス珠のような娘も授かるというものです。道も見えずに蓄えもないというのにどうしてかと

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いぶかりましたが来年には52歳になるというわたしの肉体の生理が呼び起こしたインスピレイションだったのかもしれません。我ながら不思議な気持ちになりながらもこれは確固として起こる事実だろうと確信するしかありませんでした。

そもそもわたしはカラオケバーに自分からは行かない人間です。あそこにはわたしの美意識をくすぐるなにものも感じられないからです。しかし店のオーナーが日本から来たときとか友人が日本から遊びに来たときなどはお付き合いで時には出かけます。
この時には友人が来たのでオーナーが来ると出かけるスクンビットの老舗のカラオケバーに出向きました。そこにわたし好みの女性がいました。
「ホラ、オイラの嫁さんこのテーブルにおいでよ」と、始まってにぎやかに楽しんでいたのですが、彼女が言いました。
「ネエ、結婚しよ。アタシ子供が欲しいは、、、」
「エッ、、、、、」
結婚って、まさか、わたしが、カラオケバーのホステスと、と、考えて聞き流していました。彼女のニックネームはミュー、自称24歳?中国人の両親をもちプーケットに生まれる。双子で生まれた彼女だけが、どういうわけか里子に出されたという。父親はすぐに蒸発、しかしどこかに生きているらしい。生まれながらにして二親の愛情を剥奪されて、いろんな家を転がされて育ったという彼女。だから泣くわけにはいかなかったしケンカするしかなかったと、、、。
なにか、わたしには、想像もつかないTVドラマの中の話のようでした。
「だからアタシはマフィアよ」
まさか、ちがうだろう。なぜなら本当にマフィアだったらわざわざ言わないだろうとわたしは思ったのですが。
「結婚っていうけど、オレ、全然お金ないよ」
「そんなの信じないよ、お店のマネジャーで50歳でしょう、貯金とか家とか車もあるんでしょう?」
「それがまるでないんだな、今の店のオーナーが経営能力ゼロだから、預金ゼロ、家はアパート、車はレンタル、もう4年目になるのにズーット赤字さ。だからオレのサラリーもままならないんだよ」
これがまったく本当のわたしの現実だったのです。
彼女はわたしが冗談をいっているのだと思ったようでした。
「それでもいいわよ、アタシ、アナタを愛しているから結婚したいの」
「まさかあ、、、、」
「アラッ、、ほんとよ」

この会話には両方の誤算が有りました。
わたしは彼女がマフィアだというのを信じなかったし、彼女はわたしがほんとに金も家もないというのを信じなかったようなのです。別にそれでもよかったのです酒場での客とホステスのやりとりなのだから。ところがこれから彼女の

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猛攻撃が始まりました。ひんぱんな電話攻撃にも効果がないと見たか彼女は店にも顔を出すようになりました。そして結婚しようの一点張りなのです。だからと言って、どう考えてもわたしにとってはまさか、、でした。バンコクのカラオケバーのホステスとは通常お客に請われたら連れ出しが可能なのです。下卑た言い方をすれば公衆便所とおなじで誰もが利用できるのです。それでは娼婦と同じ事になります。わたしが50年間夢見てきた嫁取りのイメイジからは余りにもかけ離れてはいないか。わたしの持っているつまらない常識が拒んでいるのです!!

それでもあきらめない彼女でした。客が引ける頃に店に来ては奥にある大テーブルのソファーに腰掛けては訴えるのです。しまいにはさめざめと泣き出す始末でした。この涙が演技なのかホントなのかは単細胞のわたしには分かりようもありません。
このとき潰れかかっているわたしの勤めている店を建て直そうとして臨時のオーナー代理の日本人がいたのですが、彼が言いました。
「いいんじゃあないのかなー、似合いですよ、一緒になってやったらどうです」
何を言い出すのかとマジな彼の顔つきを見つめなおしたわたしでした。

その目線をソファーの彼女に戻した時に、不思議な現象がおきたのです!!昨年に強烈なインスピレイションで予感された、今年にはわたしが嫁を取り珠のような娘を授かるという、その珠のような娘の顔が彼女の顔にダブって浮き上がって見えたのです。見開かれたつぶらな黒い瞳がわたしに訴えていました。
自分が貴方の望んでいる娘ですよと、オドロイテ見つめなおした時には、赤子の顔はもう消えていました!!

思いっきり動揺してわたしは思考をめぐらせました。一体なんだったのだろう今のは、これが予感された娘であり、その母親がこの彼女なのかと。どうして彼女なのだと。昨年予感されてからすぐに借りた二部屋のアパートは私の初婚になる嫁と生まれてくる娘のためなのです。その部屋に入る定めを持ったわたしと赤い糸で結ばれているという伴侶とはこのカラオケバーのホステスのことなのか。驚愕しながらも思考を続けました。

わたしは女性とは買ったりしてはいけないものだと40歳近くまで思っていました。
なぜ買ったりしてはいけないと思っていたのでしょう。それは自分の恋人になるかもしれない女性が誰かに買われていたりしたらとても嫌だと思ったからかもしれません。ということはわたしにとっての女性とは人にお金で買われたりしない女性という事になります。その結果、人に買われる事を生業にしている女性たち、つまり娼婦は、わたしにとっては女性としてみなされないという事


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になります。どうして同じ人間なのにとかんがえもしなかった疑問が頭をもたげ始めました。それは差別ではないのか。
だったらNYから逃げたわたしの姫はどうなのだろう。
彼女は星の王子様が日本のある財閥の三男坊だからこそ、そこには御殿と生活の保障があったからこそ、貧乏画学生だったわたしを裏切ったのでしょう。彼女はお金に身を売ったと同じ事になります。

初恋に近かった楊貴妃はどうだったのか。
今にして思えば、30年前の、あの正月元日のきらびやかな陽光の下、それぞれの両親に許された20歳と19歳の二人の新婚初夜にもひとしい時間を目の前にして、助手席の足元に吐き出された彼女の臭気を放った汚物。このつわりからの時間を逆算すると、そこには楊貴妃が誰の子を身ごもったのかが分かる、彼女の言葉が残されていました。
それは、冬を前にした荒くれた相模の海面が風にあおられてささくれ立っていた日のことです。重いほの暗い雲がはげしく移動している夕暮れ時の稲村ガ崎の浜辺、わたしと楊貴妃は言葉すくなにひしと体を寄せ合って互いの心の鼓動の高鳴りを楽しみながら冷たい砂地を散策していました。盛夏の名残を懐かしむように海の家の敗れたヨシズが風にざわめいています。浜辺はわたしたちにとって無限と思われるほどの果てを持ち、時間もまた自由にあったのです。
わたしたちが出会ったのがこれより5年前、穢れを知らない白磁の誰もが振り返るほどの美貌の持ち主、15歳だった楊貴妃が、どうしたことか私に白羽の矢を立てて、
「おつき合いしてくれる、トミザワクン」
そう、声をかけてきたのが始まりでした。

いったい楊貴妃だったら誰であれ声をかけたら落とせるはずなのに、よりによって、どうしてオイラなのかといぶかるわたしに彼女は明快に答えてくれました。
「アタシの家はおふとん屋だったの、4年前まではね。弟2人と2親で五人家族、しあわせだったわ。でもねお酒とギャンブルが好きなお父さんは商売がうまくいくほどにおうちにかまわなくなってしまって、とうとうギャブルの穴埋めにとお店を取られてしまったの。やけになったお父さんはもっとお酒を飲むようになってから若い女の人とアタシたち家族を捨てて家を出て行ってしまった。しかたなく6畳一間のアパートにお母さんと4人で移って、お母さんは料理屋さんの仲居をして働きはじめ、小さな弟2人のほとんどの面倒はお姉さんのアタシが見てきたは。でも、こんどはお母さんが若い男の人を時々家に連れてくるようになったの、そしてねアタシたちにね新しいお父さんだからねといったの。そうなのかなとか思っていたらその男の人はすぐに出て行ってしまった。ほっとしていたらね何ヶ月かしたらまた若い男の人が家に入ってきて、お母さんが、お父さんと呼びなさいといったは。この時に始めてアタシはお母さんに文句をいったの、いいかげんにしてよッお母さんッ」

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30年前の初恋がバンコクの現実に重なってきました。
「だから、アタシにとってはトミザワクンしかいないと思ったの。お酒もギャンブルもトミザワクンはしないでショ、誰よりもまっすぐに生きているは。アタシねお父さんの生きたあととお母さんの生きたあとだけは追いかけてはいけないと自分に誓ったの。だからトミザワクンなの」

これが、わずかに15歳の楊貴妃の覚悟の言い分でした。これもわたしにはまるで想像を絶する家庭内の話でした。16歳だったわたしは楊貴妃の持つ希望に命がけで応えようと思ったのです。だからこその5年間のプラトニックラブになってしまったのです。

それにもかかわらずに楊貴妃はわたしと初めて結ばれるという日に、すでに子を身ごもっていました!!そのきっかけとなったのが秋口の稲村ガ崎の浜辺だったのです。わたしの右腕には楊貴妃の肩のぬくもりが天上の春風のように感じられていました。つき合いはじめて5年、わたしが彼女に触れる事が出来るのはここまでなのです。なぜならそれ以上のことは結婚してからと決めていたからです。しかし、そんな意気地のない私に天が怒ったのかしらん風は強度を増して雨を伴い、相模灘から吹き上げるようにして波頭を飛ばせては、わたしたちを襲い始めたのです。あわてて車にもどろうと駆けだしたのですが、もう数キロも車からは離れていました。
「あの海の家のヨシズの影に避難しよう」
手に手を取って水分を含んだ重い砂地を我々は蹴りました。

これはもう秋の嵐でした。ヨシズの影とはいってもまったく防御にはならずにほとんど冷たい雨を伴った強風に私たちは横殴りに叩かれていました。楊貴妃を守るために彼女をヨシズの壁に押し付けて正面から抱きすくめているわたし。冷え切った体はおたがいのぬくもりをもぎ取るようにしてはげしくいだきあいました。そこには白い濡れたうなじがしとどな黒髪にまぶされてあり、身震いすればそこには桜の唇がありました。我々にとっての初めてのキッスが豪雨の中に演出されたのです。健康な若い男女なのです、狂おしいほどの抱擁でした。かといって、それだけのことなのです。楊貴妃の花のつぼみをうばうほどの度胸はわたしにはなかったのです。にもかかわらずに精根感じつくして、そのあと風雨に冷え切った体で我々は車に戻りました。
「家まで送るよ、、、、」
「、、、このままの濡れた洋服ではおうちには帰れないは、、」
そう言われても、だったらどうするのというアイディアは単細胞のわたしには情けない事にありませんでした。
「、、!!」
「親友のKの家に行ってそこで彼女の洋服借りるは、、、そこまで送ってトミザワクン」
「そうするか、、いいよ、送るよ」

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楊貴妃の親友Kの彼氏がYでした、朝鮮高校の学生です。このYが楊貴妃に一目ぼれしていました。
、、、、、結果、、この時期に楊貴妃はYのやや子を身ごもったのです、、!!この事実を隠蔽する為に既成事実を作ろうとわたしとの始めての泊りの遠出に出かけたのでした。しかし楊貴妃の目論みは、つわり、によって掻き消えてしまったのです。

楊貴妃はわたしを彼女が望む理想のダンナに育て上げようとして、その理想に応えすぎた臆病なわたしの行動不足によって自然吐露する性の欲望のはけ口をYに向けってしまった事になります。そしてそのままYと結婚して二児の母親になりました。
ここまで考えたら、たとえ娼婦でなくても、女性とはお金のために相手をえらび、また、欲望に負けて花のつぼみを許してしまうこともあるということになります。ということはバンコクのカラオケバーのホステスも娼婦もやっていることはわたしの姫と楊貴妃に、なんら変わらないことをしているだけという事になります。こうしてわたしは自分を納得させて52歳になっての初婚を中国系タイ人のカラオケバーのホステスミューとする決心をしたのです。


マリッジ
われわれはまずタイの籍を入れました、そして日本領事館に赴いて日本の籍にも入れました。彼女の身分証明書には24歳と書かれているので、そのように日本にも登記されたのです。わたしは幸せでした、子を持ち育むために出会ったわれわれであり、その夢に向かっての日々の生活なのですから。

あるミッドナイトに外が騒がしいので二人でベランダに出てみました。下の路上のくらがりの中に何人かの人達が夜空を見あげて騒いでいます。その視線を追いかけてみたら、そこには今まさに太陽からの光線をさえぎって地球の影がお月様を飲み込もうとしていました。皆既月食です。まったくの闇が訪れました!!

われわれは、こうふんしました。このねっとりとした暗闇はやや子を願う二人に用意されたものだとわたしは強く感じました。彼女を見つめると同じ思いだと目を輝かせているのを確認しました。この夜の交わりはかつて経験した事のないものであり至福そのものでした。これが男女の交わりの原点だろうと思い知らされたものです。これより約10月10日後には予感されたとおりの珠のような娘――彩――が生まれたのです。病院に駆けつけやや子を抱き上げたわたしは、
「彩ちゃん、よかったね、ちゃんと生まれてよかったね。ぼくがパパですよ」やっとの思いでここまで言ったわたしでしたがこらえきれずにそのまま号泣で


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した。まだベッドに横になっている女房殿も、彼女の双子の妹も、かたわらにいて、あきれて笑っていました。
わたしは有頂天になりました。すべてが天命の予感とおりにことが進んでいるのですから。

なんということでしょう、ほんとにほんとに小さな手が小さな足が動いているのです。50歳を過ぎての初婚です、娘です、感激です!!

一切衆生が輪廻するといわれる三界の最高所を仏道では、有頂天といいますが、まさに私は高揚して有頂天になっていたでしょう。そして物事の道理として高みを極めたら今度は落ちるしかないようです。その奈落を阿鼻といいます。それが私の明日でした!!

困った事がおきました。わたしが女房殿を抱けなくなってしまったのです。その理由は、彩を身ごもって大きくなった女房のお腹にはその結果のあたりまえの後遺症として縦横無尽に赤黒い妊娠線がくもの巣のように張りめぐらされていたのです。おどろいたわたしです、何しろ知識がなかったものですから。それにしても、これではなにをどうがまんしてもオイラの糞の役にも立たない美意識が許せない、、、、、!!ということで、まったくわたしは彼女に食指が働かなくなってしまったのです。そんな事が夫婦になった男女に許される道理もありません。そう、自分に言いきかせても、困りました、だめなのです。わたしの身勝手な感性はただ彩を慈しむためにだけ働きはじめました。とうぜん激怒した女房殿ですが、どうにも出来ないわたしがいました。

これから女房殿のわたしに対する反撃が始まるのですが、すべてはわたしのふがいなさという事で天国と地獄に共存する事になってしまったのです。


わたしが行きつけのトンロー通りの居酒屋のカウンターでマスターがおかしなことを言いました。
「トミの母ちゃん、いくつって言ったっけ!」
「、、、エッ、オレの母ちゃんて、?、そりゃあ一緒になったのが3年前で、24歳だったんだから、いまは27歳じゃあないのかなあ」
どうしたんだろうマスターがおかしなことを言い出したなと思って顔を上げてカウンター越しにマスターを見あげました。
「そうじゃあないらしいよ、、トミの母ちゃんはもう39歳だってよ」
これはまた寝耳に水のはなしでオドロイタわたしでした。
「トミは騙されたわけだよ、まわりは皆知ってたらしいけど舞いあがっているトミを見て黙ってしまったんじゃあないの」
「そうなの、、だけどどうしてそんなことをマスターが知っているんですか?」

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「トミの母ちゃんの友達がまだスクンビットのカラオケバーにいるだろ、そいつが寝物語に話してくれたよ。それに母ちゃん日本にもいたことがあるらしいよ」
これまた、ビックリのわたしでした。彼女は日本に行ったことがあるなんて一言もわたしには言ってないのですから。どうして言わないのか、それは言いたくない理由があるからでしょう。そう、女房殿はだったらジャパユキさんだったのかもしれない!!

その夜、女房殿に聞いてみました。どうして年をごまかしたんだと、結婚した時には36歳だったそうじゃないかと。そしたら、
「アラッ、だって身分証明書には24歳って書いてあったでしょう」
「だから、どうしてほんとは36歳だったのに身分証明書には24歳って書かれていたんだよ?」
「それはね、役場に賄賂を払って若く書きかえてもらったのよ。家族全部ね」
「じゃあ、双子の妹も、あの一卵性双生児って言う妹も同い年なの?」
「アーあれはね、似てるでしょうアタシにそっくりじゃあない、だから冗談言ったの。妹は12歳年下よ」
わたしにはもう何がなんだか分からなくなってきました。
「もうひとつミューは日本に行ったことがあるって聞いたけどホントかい?」
さすがにオドロイタ顔つきの女房でしたが、さらりと言ってのけました。
「、、、アッ、それね、ん、一週間だけ遊びに行ったことがあるけど、、、でも一体誰にそんなことを聞いてきたの?」
「スクンビットのカラオケに友人がまだ働いているだろうが、彼女が居酒屋のマスターにベッドの上で言ったってさ」
「あら、そう」
もうこれ以上は聞く気にはならないわたしでした、聞くのが怖いというのが本音だったでしょう。それに、いまさら、女房の過去を知ったからってどうなるものでもない。大事なことは彼女は最愛の娘彩の母親なのだから、この事実の前にはたいがいのことは掻き消えてしまいます。それに12歳年をごまかしたからって、それでもわたしよりは16歳も年下なのですなにをか言わんやです。別に聞きたくもなかったこのマスターの独り言ですが、世間の口に戸は立てられません。

赤字つづきの店のマネジャーをしていた私は充分なお小遣いを彼女には上げられていませんでした。その為かも知れないのですが私の財布からお金がよくなくなるのです。
「こらッ、やたらに俺の財布から金を抜くんじゃない、、、そういうのを泥棒って言うんだぞ」
涼しい顔で彼女は応えます。
「あらッ、アタシはアナタの奥さんでしょう。だからね、だんな様のものはアタシのものと一緒なのね、これはね泥棒にはならないわ。知らないの!!」

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中国系タイ人の我が女房殿です、とても柔な大和男児のわたしが太刀打ちできる相手ではなさそうです。

女房殿と出合ったカラオケバーのパンチパーマで決めた社長はときどき店に食事にきます。
「この間ねえ、お宅のかあちゃんのミューが店に来てね、いきなり、うちのちいママをぶん殴るんだよね、まいったよ」
なんでまたとオドロイタわたしですが社長も理由なんてわからないといいますからあとで彼女に聞いてみました。そしたら、
「アタシがアンタと店で出会ったときに、おもしろくないちょっかいを出したのよ、あの、ちいママは、だから、なぐってやったわ」
「だからって、、わざわざ店にいって殴ることはないだろうが、、、」
「言ったでしょう、、アタシはマフィアだって」
まったく、二の句を継ぐのがあほらしくなってきました。

わたしがタイに来て6年余りが過ぎようとしていましたが、店は相変わらずの赤字続きでどうしようもなくなっていました。いつ閉まってしまうかわからない状態なのです。このままでは家族の明日が心配だと思っていたら女房殿がアパートの一階の食堂兼ミニマートが約100万円で権利が買えるといいます。かと言ってまるで蓄えのないわたしでしたから、どうしたものかと考えてしまいました。何とか女房殿にやらせて家族の明日の生活の保障にしたいと思い、女房殿と知り合うきっかけになった日本の友人Hに借りられないかなと相談したところ快諾をえました!!

ミニマートの営業は順調に運んでいるように見えました。この頃には彩がはじめて歩いたり、はじめてしゃべった言葉がパパのまねをして(たいそう)だったりと楽しい日々が続いていました。
そんなおり女房殿のバッグからカッターナイフの柄がのぞいているのが見えました。
「、、、、なぜこんなものを持ちあるいているんだ?」
「なぜって、、けんかの道具じゃない。仕掛けられたらこれで切りつけてやるのよ!!」
平然と言ってのける女房殿です。
「じょうだんじゃあないよ、バカヤロウ、こんなもの持ち歩くなッ!!」
よく聞いてみたら以前にタニヤで仲間の女性とけんかになったときにはこれで切りつけて顔に怪我を負わせたといいます。言葉をなくして考え込む私でした。これがわたしの女房であり彩の母親なのだと納得して飲みこむのには時間がかかりました。


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ある夜、自分を求めなくなってしまった私にいらついたか女房殿は、、、想像を絶するようなあらぬ肢体をわたしに見せつけながら絶叫しました、、、。その叫びもまた想像を超える、、、男を誘う言葉でした、、、!!
女としての彼女が感じたこのいきどうりは生涯一度のものと思えるほどの鬼気迫る迫力でわたしに突き刺さりました。かっぱりと開かれた彼女のそれを見ながら、、、ここまでさせるほどに追い込んでしまった自分のわがままを恥じるとともに、それ以上のわがままを持って、嗚呼、わたしはこの女を二度と決して求めはしないだろうと固く心に誓いました!!

月末になってクレジットカードの請求がきます。そこにはわたしが使った分と女房殿がミニマートの仕入れに使った分が書かれています。ですから売り上げから仕入れに使った分は取っておいて月末には私に渡すことといってあったのですが、まったく半分にも満たない額しか蓄えられていませんでした。これが数ヶ月続いてようやくにわたしは彼女にカードを作ってやったことを後悔しました。
「出せよ、カードを。今ここに出さんかあッ」
わたしの余りの剣幕にオドロキたじろいだ彼女はしぶしぶカードを差し出しました。それをはさみで半分に切り裂いてゴミ箱に捨てました。
「分かったか、、、二度とキサマにはカードは作らん」

それでもなんとか営業をつづけてきたミニマートでしたが突然に1年にも満たないのにビルのオーナーからリースが切れたから出て行ってくれといってきました。つまり女房殿が金をはらって権利と備品を買いとった相手というのは、単にここのオーナーから借りていただけのテナントであって権利も備品もテナントの権限にはなくて、すべてビルのオーナーのものだというのです。だから女房殿は単に騙されただけの事であって、騙されたほうが悪いということになりました。残ったのは私が日本の友人Hから借りた100万円の借金だけです!!
これと同じことをわたしはNYで絵を描くためのスタジオロフトを借りる時に経験していました。しかしわたしの場合は泣き落としで結局そこに5年もいたのですから元は取った事になります。しかし、女房殿の場合はまったくの捨てゼニでした。情けない結末です。

それにもかかわらずにわたしが働いている店のビルのオーナーからは、トミザワは奥さんにミニマートとカラオケバーをやらせている程お金があるのに、それなのにどうして店の家賃を払えないんだといってきました。だから店は赤字で大変なんだと、ミニマートのお金は日本の友人から借りてやったものであって、しかしそのカラオケバーというのは何ですか、そんなものを私はやっていません。よく聞いてみたら先日に私が首にして辞めていったタイ人女性マネジャーGがビルのオーナーにちくったといいます。そのカラオケというのは女房殿のミニマートに入れたリースのジュークボックスカラオケのことを拡大して

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言ったようでした。このマネジャーはそれにも飽きたらずに、バンコクのあちらこちらでトミザワは店の金をくすねては女房にミニマートをやらせたりカラオケをやらせていると吹聴して回ったようです。それを世間はまた信じるのです。日本にいる店の経営者にも伝えたようでした。この噂はそれから十年しても消えないのですから恐ろしいものです。

わたしは生活するだけがやっとでとても蓄えなどできる状態ではありませんでした。日本の経営者はまともにサラリーをくれないのですから。日本に貯金しておくからといっていました?

女房殿の顔がはれています。
「どうしたんだ、その顔は、また誰かとケンかでもしたのか?」
「バイクタクシーで転んだのよッ」
ところが一緒にディスコに遊びに行った彼女の友人の言によると。酔っ払ってしまった我が女房殿は意気揚々と大騒ぎをして踊りまくり、ある御仁にそのお尻をごつんとぶつけてしまったようです。注意された女房殿は逆切れ状態で反対に怒鳴りまくったようでした。それで怒った御仁はやおら拳銃を振りかざして女房殿に迫ったのですが、これまた、逆切れで、
「ナンだあ、おまえは男のくせに女のアタシをピストルで撃とうってゆうのかい、このくされやろう。撃てッ、撃てッ、じょうとうだよ、、さあ撃ちやがれエーッ」
とばかりにまくし立てたようです。しらけた御仁は拳銃をしまって、ごつんと一発このうるさい女にかましたようでした。
わたしの愛する娘の母親がこんな生き様をしていていまだにまだ生かされているのが不思議に思えます。


アメリカンエクスプレス
からクレジットの請求書が来ました。わたしが使った額にプラス4回分ほどが加算されています。その額はなんとこの時のわたしの家族の生活費の3倍にもなるのでした。よく請求書を見てみたらわたしが寝入った明け方の4〜5時前後にちかくのATMから現金で数度にわたって引き出されているのです!!いったいこれは、くそったれ女房殿の仕業だろうと思いました。
「バカ言わないでよッ、アタシがアンタのカードのピンコードのナンバーなんか知るわけがないでしょうが。フンッ、なんかの間違いじゃあないの、、、」

アメックスにはその旨を伝えて、とりあえずはわたしが使った分を支払いました。しかしアメックスは、使われたものだから全額し払えの一点張りです。それはそうなのですが、まったく予備金のない私には逆さになったって支払える額ではありません。ですからアメックスに伝えました。どうも女房殿がやったとしか思えないのだが彼女は知らないと言い張っている。だからお宅のセキュ

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リティーマンをここによこして女房殿を調べてくれと。その結果女房殿がやったと分かったのなら、仕方もないから私が何とか責任を取ります。このように伝えたのですが、送るといいながらいっこうにアメックスは調査官を送ってきません。そして払え払えの繰り返しです。業を煮やしたわたしは近くのルンピニー警察署に駆け込みました。こういうわけで非常に困っているのだが助けてはくれませんかと。つまりわたしの女房を徹底的に調べ上げてくれと、それでないとアメックスの催促にわたしはつかれきってしまうからと。
ところが話を聞いた警察官は、ニタリと笑って、
「それはわれわれの仕事じゃないよ、アメックスの会社が調査官をかかえているだろうからそこに頼めよ」
というわけでどこも取り合ってはくれませんでした。
しかたないからほっておいたら、アメックスは今度はこの件を催促屋に投げました。どうも催促屋とは柄の悪いお兄さんがいっぱいいるようでわたしを電話で脅しにかかりました。
「支払ってくれないなら、お宅に乗り込んで家財道具を一切没収するぞう」
ここまで来てしまったら致し方もありませんから、あきらめました。
「どうぞきてください、たいしたものもないけど、持ってたらいいんじゃあないの」
「OK了解した、近いうちに参上するよ」
いつ来るのかと待っていたら、それきり日が流れて一切の音沙汰がなくなりました。この間二年弱。

私は彩をたらいに入れて体を洗ってあげました。彩はキャッキャと喜んで水遊びをしています。ようやくに体を拭いてさあ服を着せようと思ったら、部屋中を駆け巡っては私に服を着させてくれませんでした。ママがいないときで私と彩だけだったのです。何度も呼び又捕まえようとするのですがオジンのパパより彩のほうがすばやいのです、、、!!彩は楽しんでいるのです、怖いママがいなくていつも甘いパパだけなのだからと、、、私を舐めてしまっているのでした。ほとほとに、こまってしまった私は20分余り裸の彩を追い回した挙句にとうとう切れてしまいました、、!!

「彩ッ、、いい加減にしないかあーッ」やっと捕まえたその足のうらを平手で思いっきりはたきました、、「マイ ダイ」私は思いっきり叫んでいました!!

急変したパパの激怒に震えおののいた彩でした、、、、「この服を着ないかあーッ」、、、手に持った服をあやの足元に投げて私は瞬間殺意さえ持って、、、、小さな彩を睨みつけたのです、、、!!そして又たたきそうに成る自分を押さえる為にひとりベランダに出て頭を冷やしてみました。彩がベッドの上で立ち上がってシャツを両手ににぎりしめて泣きながら私を見つめて訴えました!!

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「パッパーッ パッパーッ  彩シャツ自分で着たことないよー  パッパーッ パッパーッ 彩,着れないようーー」

そう訴えているのでした。そのありようには恐怖が浮かびこの世のものとは思えない淋しく救われようのない表情なのでした!!実の父親が子供にこんな思いをさせるものなのかと私は自分のしている事に、、それこそ彩が感じているような恐怖に襲われたのです.嗚呼、こんな事、こんな事、、、してはいけない、、、こんなこと、、小さな彩にしてはいけない。この時私は自分に誓いました、、二度とこれからの生涯に彩に対して手を上げたりはすまいと。

このことがあってからかわいそうに彩は、私が、、、「マイ ダイ」「だめだよ」と言うたびにこの時にパパから与えられた恐怖を瞬間に思い出すのでしょう、小さな体をビッと震わせて仁王立ちになり私の顔をうかがいます、、、、!!この反応が1年ぐらいは続きました。

 ナントいう事を私は彩にしたのでしょうか、この償いは生涯しなければいけないものになりました。つまり、私にとっては私の家族に対して(女房と娘)償いをしつづけなければ成らないと言う結果を私自身が生み出してしまったのです。このことを踏まえたうえでこれからの女房殿との出来事を判断していただけたのなら、尋常ではありえないような私の家族の現状を理解していただけると思います。

その頃、1996年バンコク。わたしは女房殿の友人から日産のピックアップトラックを譲り受けました。その車はタイの日産が生産していた(NV)1600ccの小型車です。一年落ちでしたから快調に走ってくれていました。あるとき高架のハイウエイを走っていました。80Kぐらいのスピードだったのですが前方の車が急ブレークを踏んだのでわたしもそくざに急ブレーキを踏んだのです。そしたら突然に左側へと急旋回をしました。そのまま行けば左側のコンクリートフェンスに衝突して大破するか、もしくは勢いがあるのだからフェンスを飛び越えて20メートルもある地上へと落下したかもしれません!!瞬間にダブルブレーキを踏みながらハンドルを右へとドリフトしてみました。そしたらフェンス激突間一髪手前で今度は反対の右側へとダッシュしたのです。そこには後ろから来ていたベンツが走っていたのでサイドボデイに激突しました。その勢いで跳ね返されてまたも左側のフェンスへと向かいました。前と同じようにしたらまたも右へと急旋回です。そこには、さっき激突したばかりのベンツがまだ走っていたのですが、信じられないことに同じベンツにまたも激突しました。

幸いなことにけが人は出なかったのですが、それから数日後にバンコク市内で下り坂で渋滞していたので急ブレークを踏んだらまたも左へとダッシュしました!!わたしはその時点で車歴35年です。単独地球一周ドライブでさえ無事

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故でやってきた経験があります。ドライブに関しては多少の自負は持っているのです。こんな車は見たこともありません。わたしはラチャダピセックにある日産のデーラーにもって行きました。この車はおかしい、危険です、これこれこういうわけです、と説明してみてもらったのです。しかしエンジニアがいうにはどこにもおかしいことはないと言います。友人のプロのレーサーにも見てもらったのですが首を傾げるばかりでした。わたしはもう急ブレーキを踏むことができません。また同じことが起こっていつ死ぬか人を傷つけてしまうか分からないのですから。その後エアコンが効かなくなったのでこの日産のデーラーでコンプレッサーを取り替えたのですが。新しいのがいいか古いのがいいかと言われて新しいのを付けてもらいました。しかしこれはすぐにまた壊れてしまいました。つまり彼らはわたしから新品の値段を取っておいて古いのをつけたのです。

こんなことはタイではしょっちゅうあることなのでだまされたほうが悪いと言うことになるのですが。かりそめにも日産の看板を上げているデーラーがこういうことをするとは、その会社自体の体質を問われても仕方ないでしょう。わたしは非常に不愉快な気分でこの日産NVと言うピックアップトラックに乗っていたのです。そしてタイ人の間にもすでによく故障する日産、故障しないトヨタと言う合言葉が流行していました。
その後になってこの危険極まりない急旋回の原因がなんだったのかわたしなりに分かったような気がしました。それはこの中古車がつけていたタイヤがとても高価なものだったのですが、すごいグリップの効き方だったのです。このグリップの効き方に耐えられるような構造をこの車は持っていなかったのではないか。そう結論付けたわたしは早速普通のタイヤに取り替えました。それからは急ブレーキでも普通にとまるようになりました。わたしは安心してドライブできるようになったのです。かと言って、タイヤのグレードを上げたくらいでブレイキングのバランスが制御できない車なんて聞いたこともありません。いいたくはないのですがやはりタイメイドかとつぶやきたくなる現実です。

女房どのにさわらなくなってしまってから、生理の都合上仕方がないと自分に勝手な言い訳をつけて時にわたしは女性を買いに風呂屋に行きます。ここでは感情に支配されずに欲望だけを空しく満たすことができるからです。わたしのせめてもの身勝手な言い分は愛情だけは娘彩と女房殿に注がれていると確信していたからです。しかし、とてもおかしなことにわたしが若い女性の体をいつくしんでいる最中にかならず女房殿から電話が携帯に入るのです。
「どこにいるのッ、なにしてるのよッ」
おどろくわたしです、何度もです。どうしてわたしの肉の裏切りが彼女には分かるのでしょうか。
「、、、エッ、、今、マッサージだよ」
「ナンのマッサージなのよ、、!!」
「疲れたからな、古式マッサージさ、、」

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「フンッ」
どう考えても女房殿には分かっているようでした。なんということでしょう、こんな事が許される道理もないでしょう。彼女のいきどうりとはイカばかりのものだったでしょうか。

夫婦なのにダンナは自分の体には見向きもせずに欲望だけは外で果たしているのです。それでも夫婦をやっていくということは、この二人のあいだにバランスが保たれなければなりません。その結果はあとで私の思い知るところとなります。

パチュアップの警察署にいるという女房殿から電話が来ました。そこには年に数回しか合うことのない母親がいて、彼女はときどき母親の仕事を手伝いにいっているようでした。女房殿は電話口でいきなり泣き出して訴えました。
「男に殴られたわ、頭も切って顔も傷だらけよ、、、」
どうもよく聞いてみると金貸しをしている母親の変わりにその取立てをやっていて男ともめたあげくにぼこぼこにされたようでした。
「おまえがまたタンかを切ったんだろう、自業自得じゃあないのか」
そのことがあってから数ヵ月後には、またパチュアップの警察署から電話です。
「わたしを殴った男に仕返しをするために拳銃を買ってあいつの足を撃ってやったわ。だから今警察に来てるけど、先にあたしを殴ったのがあいつだからわたしのしたことは正当防衛よ」
まさか、そんなことが正当防衛になるはずもないだろうとわたしは思ったのですが。結果は多少の罰金と自宅謹慎ということで警察とは話がついたといいますから、恐ろしい国です。

ある年の8月はじめ、わたしはタニヤのラーメン屋で新聞を広げていました。そこの芸術欄に映画の記事が書いてあります。(1991年北大西洋を襲った二十世紀最大のハリケーングレイスがついに映画化!!)
わたしはこの記事に目が釘付けになりました。
なぜならこのハリケーングレイスはわたしがヨットでバミューダに向けて単独航海している時に4日間もわたしと艇を呑みこみ360度転覆を数回繰り返して帆走不能になり漂流をした世にも恐ろしい巨大波を生みだした張本人なのですから!!
記事によるとエアーフォースワンを手がけたウオルフガングピーターセン監督がジョージクルーニーを主演に立てて原書パーフェクトストーム、セバスチャンユンガー著を元に映画化したというものでした。わたしが体験したあの超怒級の海洋暴風が映画になって数週間後にはこのバンコクでも上映になると書いてあります。

ワールドトレードセンターの映画館のビップシートにポップコーンとコークを片手にわたしはこの映画の開演をドキドキしながら待っていました。キングへ

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の起立のあとスクリーンにグロスターの海が写りました。メインはメカジキ漁船アンドレアゲイル号の船長に扮するジョージクルーニーです。しばらくすると突然にヨットが出てきました。どうもわたしと同じ日に本土を船出したヨットのようです。アメリカ人の船長と二人の女性クルーが乗っています。進路はバミューダーですからこれもわたしとおなじでした。
これから何度もこのヨットは突然に画面に出てくるのですがいよいよ暴風がたけなわになりクルーがSOSのメーデーを無線のマイクに向かって叫ぶ場面があるのですがこの時のポジションにはびっくりしました。なぜなら私が漂流をしていたポジションと同じ緯度経度をいっているのです?
1991年のあの日、あの海域に、このミストラル号というヨットがわたしと同じように遭難していた?
そして飛来した救助ヘリは隊員が荒れた海面に降下をして見事にこの3人をカーゴで引き上げてレスキューするのがひとつの見せ場になっていたのです?
しかし、この部分がわたしとは違っていました。救助ヘリはわたしのところへも来たのですが荒天のために隊員が荒れた海面に降下することもできずに、余りに危険だというので救助をあきらめて本土に帰還したのですが乱気流にまかれてc-130からの空中給油を受けられずにこのヘリはガス欠で墜落してしまったのです!!
そのヘリの墜落や救助隊員の死などは画面に出てきたのですが?ここまで見てようやくに分かったことは、このヨットは本来私のことなのだと、しかし、わたしの体験した事実を映画にすると見せ場のコーストガード隊員の花の救助場面が出来なくなります。それでは楽しくないからやらせのミストラル号を捏造して絵にしたのでしょう。娯楽映画にはちがいないがこれは真実のストーリーですと最初に断っているのがわたしの癇に障りました。そこでこの映画のオリジナルになった原作(パーフェクトストーム)がアメリカでベストセラーになっているというので手に入れて読んでみました。
そこにはわたしのこともミカド冨澤として書かれていましたが、見事に替え玉の(サトリ号)映画ではミストラル号が連綿と書かれているのです。つまりドキュメンタリー作家といわれている原作者セバスチャンユンガーがあろう事か創作をしたことになります。これからわたしは原作者とアメリカに対して宣戦布告することになりました。

同時期に8年間赤字で営業をしてきた私がマネジャーしている店がとうとう危なくなってきました。

しかし、赤字の店をどうしてまた8年間もキープしてきたのかと皆さんは不思議に感じると思いますから、アウトラインを書いて見ます。
この店の経営者はまずわたしの学生時代の友人なのです。22年間アメリカをベースにして世界を放浪していた私が故国帰還を果たそうとNYからヨットで単独船出をして(パーフェクトストーム)に呑まれて着の身着のままの裸で東京にかえって久々に会った友人がバンコクに店を出すからマネジャーで行かない

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かとさそってきたのです。美学志願で挫折したわたしですがレストランのマネジャーとかはしたくないと思っていました、理由は簡単ですマネジャーとは人の上に立って己の器量云々を別にして下に命令を出し仕事をさせなければならないのです。そんな大それた事がいい加減にわがままなわたしにできるわけがない。と思っていたのですが、20数年ぶりに帰った日本で和家具職人見習いをしていたわたしは現実の日本のなにか洗脳され尽くした共産主義みたいなにおいに正直辟易していたところですから、このさい、やはり外国のほうが住みやすいかなといい加減な気持ちでこの話を承諾したのです。
雇うほうの友人もいい加減な奴で、わたしに言いました。
「おまえには経営の才能もサービスの仕方もまして料理などはまったく分からないのだから、バンコクに行ったら店のことは何も考えなくていい。マネジャーは日本語が出来るタイ人女性を雇うからホールは彼女に任せたらいいし、キッチンは出来るチーフを雇うからこれも口出しは無用だ。おまえはえらそうにしていてただタイ人にごまかされないようにシッカリ金の管理だけをしてくれればいい。店の運営のアイディアについてはすべて俺が考えるからお前はただ言われた事をフォーローしてくれたらいい」

なにか知らないけれど、20年間会わない間にこいつもずいぶんと高飛車になって変わったものだなとわたしは少し不愉快になったのですが、別にいいかと、だったらお望み通りにちんたらといってみるかと決めました。またこうも言いました。
「世の中にはお前みたいにいつも人の下になって働く奴と俺みたいにいつも人の上に立ってリーダーになる奴とにはっきりと別れているんだよ」
言われなくても別に人の上にたとうなんてはなから考えた事のないわたしでしたからいいのですが、かと言って、わざわざおまえにいわれたくないよなとは思ったのです。

いよいよ店が開いたら。
「オイ、あまり売り上げを伸ばすなよ、儲かると分かったら金を出したスポンサーが色気づいてしまうからな、てきとうに赤字経営をして、この店は儲からないとスポンサーに思わせといてから、たたいて、オレが買い取るから。儲けるのはそれからだよ。わかるかいこうゆうの経営って言うんだよ」

あきれ返ってことばも出ない私でした。人様に大金を出しておいてもらいながらその恩義に報いようともせづにはじめから騙して乗っ取るつもりなのですから。一体こいつは20年間そんな事ばかりを学んできたのかと思ったのですが。とりあえず道をなくしてしまっている私でしたから暇なのです、ちんたらこやつの言うことを聴きながら生きながらえるかいと覚悟を決めたのです。


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しかしさすがに大金を出したスポンサーでしたオープンして2ヶ月でこの店は駄目だと見切りをつけて友人に迫りました、すぐにこの店を売り飛ばしてくれと、そして出したお金の半分でいいから返してくれと。

よって売り飛ばす気のない友人は、生返事をスポンサーに繰り返しながら、それ以後の赤字は全部友人がうめる羽目になったのです。最初に儲ける気がない店の展開をしておきながらさあこれからは売り上げを上げてくれといきなり言われたからって、そう簡単に変わるものでもありません。しまいにはこう言い出しました。
「この店にはいくらお金をつぎ込んでも儲からないからつぎ込むのは最小限度にして、とにかくキープしていてくれよ。店というのはやり続けることに意義があるんだから。最低うめる金は俺が東京で人の三倍働いて入れるから」
だったらなぜ閉めないんかと思うのですが奴がなにを考えているかはわかりません。よってわたしにはまともにサラリーは出ないのです。生活する為のぎりぎりをもらっているだけでしたから、まったく蓄えなどあるはずもないのでした。

まともに家賃が払えなくなり、従業員のサラリーさえもおくれがちになり何度もビルのオーナーから出て行けといわれたり、入り口に南京錠をかけられてしまったり、そのたびにわたしは頭を下げては少しのお金を入れてまた開けてもらっていたのですがとうとうそれにも限界が来て〆ざるをえなくなり、わたしは閉める決断をしたのです、卑怯な友人は経営者のくせしてその決断をせずにただもう金がないからの一点張りで、しのげ、しのげ、店は閉めるなといい続けていました。

閉めるにあたって、
「業者なんかわ飛ばしてしまえよ、そのうちにあきらめるから」
「冗談じゃないよ世話になった業者を飛ばせるかい、オレはこのままバンコクにいるんだそんな事をしたら俺がこの街に居れなくなるだろうが」
結果、ビルのオーナーと業者、タイ人スタッフには奴のなけなしといわれている金で清算をしたのですが、わたしには一銭もないと言い張ります。わたしにしても自業自得かもしれないけれど8年間の未払いサラリーは日本に貯金しとくからとか平気でうそぶいてきたこやつが、裸で私と家族をほうり出した事になります。一体、まったく、同じ日本人がこんな事を出来るのかと考えて見たら、思いあたったのです。つまり、楊貴妃も、姫も、こやつも父母は大陸の人間だという事でした。アジアに蔓延する独善的中華思想が彼らの根っこにはあるのです。

極め付けがわたしの初婚の女房殿でしょう。彼女はギンギンのタイ生まれの中国人です。つまりこやつらと生涯を付き合うのがどうもわたしに課せられた運

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命であり因果なのだと、これがわたしへのバランスなのだと納得するしかありません。

彩の覚悟・・母親が出かけていていないときに。余りにいたずらが過ぎる彩をしかりました。彩は泣きながらこの場にはいない母親を呼びます「マッマー、マッマー」。そして、私が出かけていて母親と二人のときは、しかられると「パッパー、パッパー」と言うそうです。そして、私は思うのです。とりあえず二親の名を呼べる彩は幸せなんだと。なぜなら彩の母親チュティナンは、双子で生まれてすぐに彼女のみ里子に出されたと言います。どういう理由でかわ分からないが二親が生きているのに彼女は両親には育てられずに、預けられ先を転々としながら育ったそうです。だから泣くわけにはいかなかったと言います.泣いたって誰も助けてはくれない。だから喧嘩するしかなかったと。私には想像も出来ない世界でした。彩をそんな目にあわせてはいけない。だから私は母親の浪費もうそつきも我慢しなくてはいけない。すがるもののなかったかわいそうなこの母親を、せめても私が包んであげなくてはいけない。これが私に与えられたバランスなのだから。彩を私に授けてくれた母親は、それだけで存在価値があるのだから。しかしチンピラマフィアを名乗るわが女房殿の余りの悪業に、時に彼女の喉仏を噛み切る自分を想像しては慄然とする、わたしも、また、いたのです。

 そんな私と母親を見ていた彩でした。もしかしたら二親ともが自分の前から消えてしまうかもしれないと言う恐怖が3歳の彩にはすでにあったように思います。これは母親のたどった道その子も歩くと言った、わたしの生みの母の言葉ですが、これが、もしかしたら彩にも当はまってしまうのかと私は恐怖をおぼえました。決してそんな目に彩をあわせてはいけない。これが私の覚悟になりました。そんな頃、私が仕事、母親もテレビドラマの脇役の仕事とかはいるとよくおばさんの家に彩を預けるときがありました。こんな時が最悪でした。母親は出かけていてもういない,だからわたしが彩をおばさんの家に預けて仕事にいかなくてはなりません。「だからね、あや、今夜はおばさんの家で寝るんだよ」 わたしがそう言うと、たちまちに彩の顔はゆがみ曇って、もう今にも泣きそうになるのでした「パパ、彩、おばさんの家行かない、、、彩、パパと一緒にいる」このときにはママはもう仕事に行ってしまっているのだからいないのです。そして、パパも行ってしまったら、もしかしたら、もう二人とも彩のところえは帰ってこないかもしれない。小さな、とっても小さな手でわたしの足にしがみつきながら、3歳の彩はこのような恐怖に襲われているのが私には痛いほどに分かりました。なぜなら、私と女房の、どうにも仕様がないどろどろな、余り声を荒げない、戦いを、小さな彩はその全身に感じていたのでしょうから。そんな彩を車に載せて近くのおばさんの家に向かいます。彩は助手席で泣き叫びます「パッパーパッパー、あやいかないよー、あやパッパーと一緒にしごとにいくよー」 私は身を切られる思いで、それでも車を走らせました。そして、おばさんの家に着きます。ここまで来てしまうと彩はピタと泣

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き止むのです。車から飛び降りておばさんの名を呼びながら、その懐に飛び込み、2度と私にはふりむこうともしません。よしんば私が「彩、パパ、おしごといってくるからね、あしたむかえにくるよ」そういっても見向きもしないのです。ここに彩の覚悟が見えるのです。この覚悟は母親からの血がさせるものと思いました。こんな思いを、こんなに小さな彩にさせてはいけない。そう思いながらこの体引き裂かれろ想いで重いハンドルを握って仕事にいく私でした。

店がなくなって以来パート的な仕事をしていたわたしですが東北タイ(イサー)の農民150人の監督という仕事が入ってきました。
まったく蓄えがないのですから仕事のえり好みなぞしていられるわけも無くて家族とはなれて単身就任ですが飛びつきました。しかしこのころには胃炎がひどくなっていて、辛いイサーン料理を大量のミルクで流し込むというような具合でした。なんどか胃がおかしいからと病院にもいったのですが、てきとうに薬をくれて終わりでした!!

イサーンのコンケンから車で二時間ぐらいとのところにあるプラント伐採の現場はまったくの原野にちかくて、水牛さんがのんびりと闊歩する田舎です。仕事の合間に時間があると私は車のシガレットライターから電気を取ってコンバーターを介してワープロにつないでは、パーフェクトストームの原作者に送る手紙とか自分の航海記録などを書き続けていました。絵をやめて以来久々に創作らしきものに始めて挑戦して興奮しているわたしがいました。2ヶ月が過ぎて伐採が終わったら今度はそれをチョンブリの工場にトラック輸送を繰り返して、まだ無人の廃墟に近い1200坪のその工場に私は一人で留守番件管理人をすることになりました。これだけの広さの敷地に1人というのは初めての経験でした。夜などは深深と鬼気迫る闇の気が感じられました。おかげで書いているものはどんどん進みましたが、胃炎はひどくなるばかりでした。

広大な敷地には南国の怪しい真っ赤なブーゲンビリアが咲き乱れています。この花は暑い太陽の下にあってなおさらに燃えては、しまいには清涼感を感じるほどに魅惑的な存在感を誇示しています。しかしその繁殖力たるやすさまじいものがあり日々に垣根や他の木々を覆い隠してゆくのです。とても私一人の力ではコントロールできない代物でした。ブーゲンビリアとは単体に近い幹を持たずに蔓上に繁殖しては垣根といわず傍らの木々といわずにむしゃぶりついてはしまいに凌駕してしまうのです。真っ赤に陽に映えている花たちの裏側を覗いたのならそこにはまるで悪魔の手のように張りめぐらされた凶暴な彼らのとげのある蔦を見ることが出来るのです。そうなってしまったらとてもやわな人間の腕などが手入れできるわけもないほどのものです。その生命力にわたしは女房殿やタニヤのカラオケバーのホステスたちを重ねてみてしまいました。きれいに映えた化粧と衣装の下で計算されつくした日本人への復習が宿っているとしか思えない彼女らのやり方に屈する時、かつて日本軍人がアジアに対して行った陵辱への償いをわれわれはされているのだと確信するに至りました。よ

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って出来うる限りにおいてわれわれは、せめても彼女らに報わねばならないのかもしれません。多分、わたしと同じ年くらいの団塊の世代なら同じように感じる人もあるのではないでしょうか。

単身就任していても月に2回は女房殿と娘彩がいるバンコクのアパートへと帰ります。そしたら数箇月の家賃滞納で電気は切られているし部屋を追い出されるぎりぎりな状態になっていました。
「なんでキサマはお金を渡してあるのに家賃も電気代も払わないのだ、エッ、どうしたのだ、このやろう、応えろうーッ」
ひさびさに頭に来たわたしは女房に怒鳴りまくっていましたが、涼しい顔をそれでも緊張させながらの知らん顔です、、、!!
どうも半端でなく彼女は怒っているようでした。よほどの事でない限り自分と娘の生活自体までも脅かしてしまう家賃滞納などできるわけもありません。いったい、何をそんなに怒っているのかと考えてみました。わたしが何か彼女に悪い事をしたのだろうか、、、したとしたなら、チョンブリの風呂屋の娘と意気投合して何度かバンセンの浜に飯を食いに行ったことぐらいだろうけれど、そんな事がバンコクにいる女房殿にばれるわけもないだろうと思いました。だけど彼女のこのしらけきった怒りはまさにそのことを知って怒っているとしか私には考えられませんでした。それにしても、だったらどうしてわかったのか?そういえば工場に新しく電話を引いたときにおかしなことがありました。新設された電話でバンコクの本社に新しい番号を伝えてから自分の携帯に電話したりかけたりと試したのですが、そのすぐあとに女房殿からこの新しい番号に電話が入ったのです!!
「チョット待てよ、オレまだこの番号おまえに教えてないだろうが、どうしてこの番号を分かったの、、、?」
「、、、、アンタの携帯にこの番号から電話したでしょう、それは全部アタシには分かるのよ」
どうしてそんな事が可能なのかとバンコクの本社の人に聞いたら転送とかいうシステムがあって私の携帯にかかってきた電話は自動的に彼女の携帯に送られるということでした。そんなとんでもないことは止めてくれとわたしは自分で携帯のそのシステムを見つけて解除しました。
ところが、だったら風呂屋の娘とのやりとりの番号も女房殿は知っているということになります。これでわかりました。女房殿はわたしにかかってくる電話をすべてチェックしては相手が誰かを確かめ続けていたのでしょう。そして相手が女だったらいったいアンタはどこのなにものかと問い詰めるでしょう。とうぜんプロの女性だったらすぐに女房殿にはばれているわけです。そういえば風呂屋の娘は、ぷっつりわたしと合うのを向こうから止めてしまったではないか!!
まいりました、そういうことだったのか、だったら私には何も女房殿に頭を上げることも言うこともありませんでした。

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ましてや稼ぎの少ないわたしはぎりぎりの生活費しか彼女に渡してないのです。50歳を過ぎた日本人なら多少の蓄えはあるだろうと踏んで結婚した彼女の誤算です。
「だからオレは、まったくお金はないのだといったろうが。オレはうそはつかん。それでも愛してるから結婚したいといったのはおまえだろう」
「バッカみたい、そんなの誰が信じるのよ、、、」
かと言ってすでに彼女は彩の母親であり、わたしには宝物を生んでくれた大事な人であるのには変わりはないのです。たとえチンピラマフィアであれ、たとえ、そこに肉の交合がなくてもです。しかしこれはあくまでも男の身勝手であって、まだ女であるはずの女房殿はその隙間風をどうしたらうめられるのでしょうか。考えてみたらわたしと言う男はまったく男の風上にも置けないわがままな卑怯者と断言するしかなくなります。
、、、ゴメン女房殿、アヤの母親をやっていてください。この世にたった一人のかけがえのない彩の母親なのだから、、、。
わたしは自分にこのようにつぶやき続けるしかありませんでした。知人たちは余りにも救いがたい母ちゃんだから別れたほうがいいと言いますが、わたしは親の身勝手で彩から母親を取り上げる事は許されないことだと信じています。ですからたとえ何があっても離婚する気はないのです。ここまで来ると本当にかわいそうなのは女房殿ということになります。


冷えたビールを飲んでは胃が引きつり、ミルクを流し込んでは和らげるという慢性神経性胃炎。これはNYで絵描き道にはまっていた30代ごろから始まっていました。同時に歯槽膿漏です。しかしバンコクに来てから5年間ぐらいはまったく消えていたのですがまた再開し始めたのです!!
傷めてしまった歯茎は元には戻らずに痛むたびに抜いてきて隙間だらけになっていたのですが、ここにきて下あごの8本を立て続けに抜いてしまい、これで残っているのは上あごの6本だけという悲惨な状態になりました。歯茎でしか物を食べられなくなり、ほとんど総入れ歯に近いものを使うようになってはじめて私は歯槽膿漏から開放されました。約30年間苦しめられた歯茎の痛みからの解放とは、喜びひとしおのものでした。

しかし神経性胃炎はひどくなるばかりで、いかにわたしが精神的にアンバランスな状態で生きてきているかの証でした!!
廃墟に近い工場での生活はまるでサバイバルゲームです。雨水をためた水槽からの水浴び、ここには水道が来ていませんでした。料理を知らない私の自炊では満足なものも出来ません。外に食事に行けば辛いタイ食ばかりで弱っている胃が休まるわけもありませんでした。
先週に彩に合いにバンコクへと帰ったから今週は帰らない週でした。往復のガソリン代も馬鹿にならないのですから。しかし、なにか胸騒ぎがするのです。バンコクへと心の綾がが引きずられるような、今夜1人でこの1200坪の無人の

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敷地にいてはいけないような。分けがわからない落ち着かない不安が充満しているのでした。どうしたものかと思案しているところにバンコクの本社にいる、例の娼婦と暮らしている若者Dからどうしても明日朝一で資料がほしいと言ってきました。これは光明への導きかと喜び勇んでわたしはモーターウエイを飛ばして2時間、彼と待ち合わせをしたトンローの居酒屋に飛び込みました。

チョンブリの工場で圧迫されるように煮詰まっていたわたしの精神は若者に合って一気に開放されました。
「ヨーシ、今夜は飲むぞう」
「そうですか、飲みますか、めずらしいですね」
この若者は中国モンゴルを旅してきて北部タイにある川をカヌーで一人下りながら入国してきて警察署に拘留されたといいます。彼はチェンマイでも風呂屋の娼婦と同棲していたといいます。いったいどうしたらアンタみたいにかるく娼婦の紐みたいになれるのかと聞いてみました。
「それは簡単ですよ。つまり女とは、娼婦も含めてですね、徹底的にかわいがり慈しむものなのです。ですからわたしは思いっきりサービスをして女に喜んでもらおうといつも勤めていますから女のほうから離れたくないといってくるのですよ」
なんともさわやかに彼は応えてくれたものでした。それに引き換えわたしのやっていることといったらオジンの肉体的な衰えもさることながら、娼婦にサービスされたいと思っていたのですから穴があったら入りたいような気分にさせられました!!
ちなみに彼の剛健な肉体は四つの日本古武道の段持ちであり地方都市の大会の優勝者でもあり、自衛隊から目を付けられて請われて入隊したという経歴も持っていました。近頃あまり見なくなった礼儀正しい若者です。

久々に冷えたビールを疲れているはずの胃の腑に気合で流しこんで、午前2時ごろに女房殿と彩が眠っているアパートに帰りました。

したたかに酔ったまなこで部屋を見わたすと、すっかり寝入っている女房殿と彩です。小さな手足と丸いボールのようなお腹を丸出しにして彩が逆さになって寝入っています。たくましく元気で大きくなれよと祈りながらカバーをかけてわたしもベッドにもぐりこみました。

何はなくともここに小さいながら家族がある、それがわたしに今を生きるというだけの単純な真理に気づかせます。

子が生まれた。
父親になった。
この子はお腹が空いたら泣きます。
食べて寝て大きくなろうと明日に向かって一生懸命です。

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父親とはただ無条件でこの赤子を愛し保護するものです。
ここには道だとか夢だとかわがままからの欲望だとか、すべてが霧散します。
つまりわたしが30数年求め続けて挫折した「人間になるための道」などは、そもそもないのだと思い知らされました。
この子はただ単純に、人間であるだろう父親を求めているのです。
わたしは、はじめて人間だったのだと気づきました。
この子を前にして、一切の空ろは掻き消えました。
生きるのです。
この子のつぶらな瞳が投げかける視線を確かに背に受けながら。
甘露です!!


疲れと酔いが深い眠りにつかせていたようです。安眠をむさぼっていたと思いました。ベッドに入って1時間あまりが過ぎた頃でした。
突然お腹の中に高熱に熱せられた無数の針が飛び散りすべての内臓に突き刺さるようななんともおどろおどろしい激痛が走りました!!
それが間断なくえぐるようして烈火のごとくにうねるのです。
あまりのことにゆでられた海老のように体を硬く丸めてうめきました。
ところが、この少しの動きやうめきにともなって激痛が倍加するのでした。
信じられません、いったいこの体の中に何が起こったのか。
わたしは微動だにできなくなってしまいました。
と、いうことは、すぐそこに寝ている女房殿にこの苦痛を訴える手段もないのです!!
激痛は腹の中いたるところに起こっているようです、どう考えたって理解しがたい悶絶寸前の痛みなのです。
まいった、このまま、分けがわからない地獄の業火も及ばないような苦しみのうちに助けを呼ぶこともできずに死んでゆくのかもしれない。
恐怖が巡る痛みとともに全身に浸透していきました。
こんなこと、決して余人の経験できる地獄ではないだろうと思いました。
だったら、よりによってどうしてわたしなのだろうかと考えたら答えは簡単でした。

一切万物はバランスの内にあるという教えをわたし自身が信じているならば、この地獄はわたしのバランスの一環として起こっていることになります。
それはこれまでの生き様からの因果といえます!!
単なるわがままで船出をしてはアメリカコーストガードを二重遭難に巻き込みヘリは墜落し隊員は海底に没した。
女房殿にはわたしの命といえる娘彩を授かっておきながら、彼女の労に報いようともせずに、糞の役にも立たないオイラの美意識が受け入れられないとかのたまわって拒絶しては、風呂屋に遊びに行く。

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まことに分かりやすくわたしはこの地獄の責めを甘んじなければいけないのだと解釈はしました。
かと言って凡人なのです、どうにもまいりました。
永遠とも思える時間を苦しみぬいてとうとう夜が空けてしまいました。
助けてくれ、助けてくれと心では叫んでいるのですが言葉にも出せないのです。
女房殿も彩も起きだしてはシャワーをとって保育園に行く支度をしているのです。
わたしの目の前でやっているのですが、わたしの身の毛もよだつような苦しみは一向にわからないようでした。
たんに寝苦しくゆるく寝返りを打っているのだろうとしか見えないのでしょう。
じっとして耐えるだけの激痛なんて、動いたら痛い、声を出そうとしてお腹に力が少し入っただけでも悶絶しそうになるなんて、いったい、こんな事態が人間に起きるものなのだろうかと不思議に思ってしまいます。
それを今経験させられているわたしの業とはいったいこれほどのものなのだろうかとも考えは巡りました。

それにしても、目の前で死ぬほどの苦しみを味わっているだんな様!がいるのにどうして女房殿は気が付いてくれないのだろうかと疑心暗鬼が首をもたげ始めました。
目のはしに入る彼女たちは普段と変わらずに食事を終えて女房殿は彩の手を引いて保育園に出かけていってしまいました。
こんなことが、ほんとに現実にあるのだろうか、わたしは絶望の淵にいやましに突き落とされた感じでした。

まさか、まさかと、思ったのです。
ありえないことだろうとです。
動けずに言葉も出せない私なのですが、せめてのこの顔は苦痛にこれ以上はないほどにゆがんでいたと思うのです。
そう思ったら女房殿の罵詈が飛んできそうでした。
「はじめからゆがんでいるようなあんたの顔じゃあないの」
返す言葉もありません。

しかし、もしかしたら、いや、たぶん、彼女はわたしの今にもオッ死にそうな苦しみ方をすべてわかっていたのかもしれないではないか。
そして、どう考えても、この苦しみ方ではあと数時間で死ぬだろうと、だったらほっておけばいいと?
なぜなら、このダンナには一銭の蓄えもないし、今は保険もない。たとえ病院に連れて行ったところで払うお金はないのだ。なににもましてこやつはアタシを奥様として扱ってはいないだろう。だったら、このまま成仏してくれれば生命保険だけは降りるだろう。
こんなふうに女房殿は考えたかもしれないではないか。

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また、もしも考えたとしたなら、それは至極当然の事だと私は納得するしかないではないか。
それが現実なのだから。

午前3時ごろに始まった身の毛もよだつ内腑を切り裂かれているような痛みは間断なく続いています。
もう朝の9時ごろになっていました。
6時間あまりもさいなまれていることになります。
どうしたものか、やはり、このままでじきに息絶えるのだろうか!!
もう意識が真っ白になってきたような気がしてきました。
なんと言う情けない虫けらのようなわたしの命の終わり方だろう。
これがわたしに必要な天が下したバランスなのでしょうか。

嗚呼、、、これは生身で落とされた地獄の針のむしろなのだろう。
彩と出あったばかりなのに。
「、、、、クウーッ、、、痛いッツ、、、」
ドアが開く音がしました!!
女房殿が帰ってきました。
なんとか激痛に耐えながら時計を見ると10時になっています。
病院だ、病院にいかなくては。
やっと、女房の目を捉えることが出来ました。
身をよじり、あがいて、ふりしぼりました。
「おい、、、、びょういんだ、、、びょう、、いん、、に連れて行け」
わたしを見下ろした女房°その目がうすら笑っているようにわたしには感じられました。
「エッ、、、ぐあい悪いの、行ったら、、」
この冷めた一言に私が彼女にしてきていることへの誹謗がにじんでいます。
「行ったらじゃあ、、ねえだろ、行けねえだろうが。、、、起こせ、、服を着せろ。バムルンラッドだ、タクシーをひろえーッ」
わきあがり渦巻く激痛に耐えながらやっとの思いで伝えました。
ようやくに観念したか女房殿はわたしを抱きかかえて起こし服を着せて抱えて外に出しタクシーに一緒に乗りました。
少しのゆれにも敏感に応える激痛に耐えながら私立バムルンラッド病院に飛び込みました。

「保険は」
「ありませんがクレジットカードで支払います」
ああだのこうだのと30分ぐらいが過ぎてようやくに医者が来ました。
「とにかくすぐに手術して開腹しなければ原因がわからないが、手術をするか?」

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この医者は何を言っているのかと思いました。どう見たって切るしかない状況でしょう。早く楽にしてほしいのにと医者の顔を見ました。
「してください、OKです」
手術室に運ばれて全身麻酔が打たれました。たちまちの内に消えてゆく意識で見た時計は12時になっていました。
とにかく、これで、9時間に及んだ地獄の業火はわたしの意識から消えていったのです。

このまま覚めないかとも思った意識が目覚めました。開腹した結果はわたしの胃が破裂して穴が開いたとのことです!!
つまり胃の中に入っているものが全部出てしまいあらゆる臓器に触れまくったからの信じがたい激痛だったようです。胃潰瘍!!
よって開腹して外に臓器を出して洗い、開いた胃の穴はふさいで元に戻したと医者は言いました。手術した傷口がふさがるのには1ヶ月ぐらいだが退院は1週間ぐらいで出来るだろうと。
ところが2日後には胸元から臍のしたまで切られて縫われている糸を医者は抜糸しようとし始めたのです。
「チョット待ってください、まだ2日目ですよ、今抜いてしまったら縫い合わせた腹がまた開いてしまうでしょうが」
だれが考えたってそうではないのでしょうか、2日で肉が付くどうりもありません。なのにタイ人医者は言います。
「なーに、もうだいじょうぶだよ、しんぱいない」
まったくこやつは馬鹿ではないかと思いました。ピッピッピッと抜いてゆきました。結果はせっかく縫い付けた部分の中央が5〜6センチにわたってカッパリと開きました。
「まったく、だからいったでしょうせんせい」
それを受けて照れ笑いしているこの医者です。
「、、、うーん、でもどうってことはないよ、このままでも1月もあればふさがるよ」
なにを言っているのかこのやぶ医者は素人のわたしが見たって2ヶ月はかかるだろうと思われました。

数日が過ぎて支払いの明細書が来ました。以前に下痢で脱水状態になり入院した時には保険があったのですが、とにかくそのときの倍ぐらいのことだろうと思っていたのです。ところがこの請求書はそのときの6倍になっているのです。この時のわたしのサラリーの約6か月分でした。これではとても払えない。まいりました。ちょうど日本からわたしが8年間働いていて閉めた店のオーナーKがやってきていたので数百万円になっている未払いサラリーからこの入院費を払ってくれないかと頼みました。ところが彼はまた新店オープンのために金がかかるからと言ってわずかに十分の一弱のお金しかくれません!!わたしにとってはまったくの、ファックユー、です。

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日本の兄貴たちにも声をかけたのですが、無視されました。まあ日本を省みずにわがままやってきたわたしでしたから仕方もないかと思いました。
それにしても困りました、このお金を支払わなくてはそれこそ退院も出来ないでしょう。バンコクでトップクラスに高い病院だとは知っていたのですがこれほどとは思わなかったわたしの誤算でした。
NYの知り合いにも問いかけたのですがだれもが、助けられないといってきました。

これもまたわたしの生様の的を得たバランスからの返信かと納得するしかありません。どっちに転んでもこれほどに情けない自分なのかと思い知らされているわたしでした。かと言ってこの現実は何とか打破しなくてはいけないと切羽詰った脳裏にひとつの光明が見えました。20数年前のNYで恋をした少女Mがかの地のユニバーシティ在学中にNY公認会計士の試験にパスして、今は日本の外資系にマネイジメントアカウンターとして勤め、その報酬はわたしのような最下層人間にとっては夢物語のようなものだといいます。
まさか、彼女にとも一瞬思ったのですが、背に腹はかえられない状態でしたから病院のベッドの上から日本へと電話しました。事情を話してどうしようもないのだと訴えて、せめて四分の一でいいから貸してくれないかと伝えました。
「それは大変だねえトミ、、、でもね、なんでアタシなのう、チョット違うんじゃあないかなあ。あのねえ、ホラお兄さんとかね家族の人にお願いできないのう、、、、」
もっともな彼女の言い分でした。
「わかったわ、でも今回だけよ。明日振り込むからね、これかえさなくていいからねトミ、お見舞金よ、気をつけてね、、、」
とりあえず、これで四分の一は出来たとほっとしたら、いま日本に行ってるはずのチョンブリ工場の経営者Hが突然に病室に入ってきました!!
「アッ、、社長、日本じゃなかったんですか」
「さっきドンムアンに着いたんだけどアンタが大変だって聞いてね、とりあえずここに駆けつけたんですよ。手術は成功したんですね、よかった、それで入院費はどれぐらいなんですか?」
まさかまだテンプラリーで働き始めたばかりのこの社長にお願いできる事ではないだろうとわたしは思っていました。しかし彼は言いました。
「そうですか、以前の店のオーナーも駄目ですか、だったら残りの足りない分は明日持ってきますからもう金策に頭使わないでいいですよ」
なんと言うことでしょうか、思いもしないところから助け船が出たのです。
「、、、、すみません、、、よろしくおねがいします、、、」
私は言葉に詰まりました。
しかしこの社長も金が潤沢だったわけではないのです、結果、高利貸から借りてきたらしいとあとで知りました!!


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それに彼も糖尿病とか心臓病とかまだいろ色と患っていて、つい数ヶ月前にも肺に水がたまったとかで入院していたのです。そんな人だからこその助け舟だったのでしょうか。感謝です。

開いたままの傷口に包帯をしての退院でした。週に一度の検査通院をくり返して、わたしがいみじくも予感したとおりにカッキリ2ヵ月後になってようやくに傷口はふさがったのです。その日これが最後の通院であり胃カメラを飲んでハイ、ありがとさん、、で、病院ととりあえずの縁は切れるとニコヤカに病院におもむいたわたしでした。

バムルンラッドの広大なホテルのようなロビーや通路です。所々に設置されている移動ワゴンには無料のジュースや飲料水がさやわかな笑顔で来客に手渡されています。ペーパーラックには世界の新聞が垂れ下がっています。もちろん読売もです。飲料水を片手に診察室に向かうとちゅうでわたしの主治医とすれちがいました。
「ハーイ、、先生」
わたしの笑顔と声は春風のように軽かったでしょう。
「ヤー、、、ミスタートミザワ、、、!!、、」
あれッ、なにか変なのです。かえされた先生からの挨拶に瞬間ですがかげりがよぎりました。この間、先生は言っていたではないか、きょう胃カメラを飲んですっかりきれいになった胃の中を確認したらそれでおわりだ、、と、、。
ウン、きっとそうなのだ。たぶん先生は今日寝不足かなにかなのだろう。

奈落
「キャンサーです」
わたしの胃の中が目の前のモニターにカラーで映し出されていました。そこには赤黒い腫瘍が生きずいています。先生はいきなりはっきりと言いました。
「悪性の腫瘍です、5センチになっています。これはもう一度手術してとり除かなくてはいけません」
ナンだって、なにを言っているのだ、この先生は!!しばらくわたしの頭はこの言葉を受け入れようとせずに拒絶していたようです。
「腫瘍って、、5センチって、ナンなんですか、だったら、どうして2ヶ月前に手術した時にとり除かなかったのですか、先生?」
うわずった頼りない声でわたしは先生に聞いていました。
「2ヶ月前の手術の時にはなかったのです」
そんなバカな、たかだか2ヶ月で生きはじめた癌細胞が5センチにまで肥大するものなのだろうか。知識のないわたしには確かなことはわかりませんでした。そして癌とは全身を細胞がむしばんでゆき、すごい痛みを伴いながら結局は死んでゆくものらしい、、ぐらいの知識しか持っていないのです。

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「もう一度手術をするって先生、今回の入院費、何人もの知人に迷惑をかけてやっとの思いで支払ったのです。これ以上は、とても無理です」
これがしぼりだしたわたしの本音でした。
「かと言って、取らないわけにはいきませんよ。悪性の腫瘍なんですからミスタートミザワ。経済的に無理ならチュラロンコン大学病院のプロフェッサーが友人でいるのですが紹介しましょうか。大学病院なら手術代金は五分の一ぐらいで済むでしょうから」

なんと言うことでしょう。ここでまた胃癌の手術をしたら今回の1.5倍の費用がかかるだろうというのです。
どうにも頭が回らないというか、回したくもないというのが本音か、とにかくわたしはこの場から逃げ出したくなりました。小さなきれいな診察室で先生と看護婦を前にして会話していること自体に耐えられなくなってしまったのです。
「先生、いま考えがまとまりません。時間をください、考えて見ます、1週間後に返事します、いいでしょうか」

とにかく外だ、空気の流れるところだ、緑のあるところだ、逃げるように部屋を飛び出して病院の5階にある緑いっぱいのガーデンテラスへと行きました。

空が遠い。
密生した木々たちは太陽と遊んでいる。
花たちはこれ見よがしに自分を誇示して開いている。
小さな噴水は水たちのささやかなリズムを奏でている。
なのに、わたしは。
出口が見えない閉ざされた扉を見据えているようでした。

キャンサー。
癌。
悪性の腫瘍。
転移。
苦痛。
死、、、、!!
これらをとりのぞく唯一の簡単な方法は、わたし自身がこの現実からいなくなれば済む事ではないのかと考えました。
だったら、どうするか。
NYを船出して以来いまだに辿れていないあこがれの南太平洋。そこを大きな客船でクルージングしてミッドナイトのアフターデッキから暗い海にこの身を投げたらどうだろうか。それですべては丸く収まるのではないか。これまた情けなくも意気地のない死に方になるだろうなと逡巡します。1週間、消えるか、再手術かの狭間を行ったり来たりしながら悩み続けて、結果わたしはチュラロンコン大学病院に行く事にしました。

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紹介されたチュラの教授に会ってみたら、久々にオーラを持った人格者でした。この人にならすべてをあずけても任せられると安心したわたしです。
病室のベッドに横になってみたらとてもあたたかな心がなごむ気流が感じられ、夜もまたおなじでした!!不思議だ、この敷地内は浄化されているようでした。若き学びの人たちの殿堂はそこの木々たちでさえ彼らに同化しているのが感じられました。まるでバムルンラッドとは天国と地獄の違いがはっきりとありました。
かの病院では夜な夜な恨みを持った怨霊が病室を訪れてきたのですが、ここではまったくに安眠が用意されていたのです!!
「胃の四分の三は切り取ることになりますが、だいじょうぶですよ気を楽にしてくださいね」
医学生6人と教授に囲まれて青い手術台にくくりつけられたわたしです。針が腕に突き刺さって急速に意識が消えてゆきました。

緑の中に小鳥がさえずり陽光が照りかえるガーデンに向かって開かれた部屋でわたしは目覚めました。5時間という長帳場だった手術はすさまじいものだったと立ち会った医学生が言います!!そして数日してゆっくりとでも歩いているわたしを見て。
「信じられない、歩けるのかトミは。あんなにすごいオペをしたのに、人間って、すごいんだなあ」
これが始めて手術に立ち会った学生の言い分でした!!
いったいどんな具合に手術されたのか想像すると身震いが起こりそうなものです、、、。ここは国の管理下に置かれた大学病院ですから医者代はフリーで設備使用料だけということで手術代金はバムルンラッドの約10分の1です。

「パッパーッ、パッパーッ]
うつらうつらしている耳元に突然の彩の叫び声でした。4歳になる娘がおばさんに抱っこされて女房殿と3人でベッドのかたわらに立っていました。
「パッパーッ、アヤこれもらったよ」
小さなその手にはシッカリとシルバーのトロフィーが握られていました。
「ワー、すごいね彩、どうしたの」
なんと、わたしが手術をしている最中に女房殿は彩にドレスを着せてルンピニーナイトバザーで開かれた子供美人コンテストに出させたようです。その結果並みいる子供美人たちをしりぞけて、それでもやっと3位の表彰台に立って賞金までもらったというのですから、これは、オジンパパとしては嬉しい限りでした。それにしてもダンナが死にそうな目にあっているというのに我が家の女房殿はなにをしていることやら、これもわたしが呼び込んでいる因果なのだろうと思いました。

手術後2日目に、ここでもバムルンラッドと同じことが繰り返されました。学生長みたいのが学生だけを数人引き連れて病室にやってきたのです。あでやか

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な女学生も混じっています。わたしの尿道にはチューブが刺し込まれていて小水は垂れ流しだったのですがこのゴリラみたいな学生長がしなびた貧相なせがれをつまんだりもんだりしてはこれ見よがしに女学生たちにやってみるかとか言っています。
「キャッ、、いやだあ、、」
なにをこやつはやっているのかと思ったら、やおら尿道のチューブをしこしこと抜き始めました。非情にいい加減にやっていて突き抜ける痛みにのけぞるわたしです。抜けたあとにはたまっていたらしい小水が少し飛び出てこやつの手にかかりました。
「ウワッ、、なんなのだ、こいつは、、」
クソッタレ学生長の顔色が変わりました。
わたしは、これは失禁だ悪いことをしたなとか思いながらも、態度無粋なこやつへの自然生理学的反逆だとかお腹のうちでは思っていました。
そのあとがいけないのです、これから抜糸するとか言ってやおらわたしの腹を大きくはだけたのです!!バムルンラッド病院での悪夢がさわやかによみがえりました。
「チョット、チョット、待ってください。まだ切って2日ですよ、まして同じところを2ヶ月前にも手術しているんです、いま抜糸したら先回も開いてしまったのが、また今回も傷口が開いてしまいますよ、、、」
必死のわたしの訴えにも関わらずに、かれは動作をつづけていました。
「もう肉は付いているから大丈夫ですッ」
まったくクソッタレ学生長が、バムルンラッドの先生と同じことを言っています。どう考えてもわたしには解釈できないこの現実なのですがいったい日本国では腹を20センチ以上も掻っ捌いておいてわずかに2日後にその糸を抜くものでしょうか?どなたか専門の人に教えて欲しいようなものです。それにしてもこの学生長がやるということはあの尊敬する教授の指図なのでしょうか、、、。だとしたら、いったい、タイ国では手術後2日で抜糸という常識がまかりとおっているのか知らん。
女子医学生の黄色い声が病室にこだましました。
「キャーッ、ワッ、だめよホラ、ダメヨ縫い目が開いてきているじゃあない、、!!」
ほとんど8割がた抜いてしまったあとでした。
「あれッ、ほんとだ、まだついていないのかなあ」
あきれ果てて、どうにも二の句がつけない私でした。つい数週間前に一見肉が付いたと思われるそのウイークな同じラインでまた切り開いているのです。その部分がどれほどに微妙なものかプロの集団である彼らにどうしてわからないのだろう。
結果、2箇所にわたって、またもパッカリと我が愛しのかわいそうなお腹は開いてしまいました。
血が滲んだままの状態で退院をして通院を繰り返しやはり2ヵ月後でした、この肉が自然治癒したのは。恐るべしタイ国です。

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これでわたしを長いこと生かせてくれた胃はその4分の3を削除され最後の精密検査を終えて数日後に教授にその結果を聞きにいきました。あの地獄の苦しみから約半年です、これで今回の2度の手術の胃癌騒動から開放されたのだろうと、ほんとにほっとした気持ちで出向いたチュラロンコンでした。でんといかついデスクを前にして貫禄の教授殿がやさしい笑みを私にくれています。その穏やかな顔を見たとたんに私は快癒したのだと信じました!!
教授のまわりには手術に立ちあった医学生たちがたむろして教授の口元を見つめています。
「、、、アー、トミザワサン、ケンサノケッカガデマシタヨ」
ここまでは日本語です。教授は少しだけ日本語が出来ます。タイ国仏教会にも入っているとのことでした。このあとは英語です。
「ほとんど胃はなくなってしまったのですから食事は少しずつ何度も食べてください。タバコは絶対にいけませんよ、コーヒーもやめてください。それから臓器への腫瘍の転移は認められませんでしたが、癌細胞が7箇所に転移しているのが確認されました」
またか、、、と思ったのが始まりで、いったいわたしのバランスからのペナルティーはどこまで続くのかと暗澹としました。
「7箇所って!!臓器へではないのですか?」
「目にも見えない細胞の転移です。これは時間がかかりますが治療しなくてはなりません。放射線治療と抗がん剤投与を最低でも半年はつづけていただくことになります」
最悪の結果になりました。手術は人の手によるものですからチュラの場合は格安なのですが薬剤には相当の出費が強いられるのです。かと言って、ここまできて治療を受けないわけにもゆきません。またも地獄の金策が眼前に用意されてしまいました。

学生時代の友人に誘われてこのタイ国へ来るまでわたしはフリーターでしたがそんなにお金に困ったことは東京でもアメリカでもありませんでした。稼げる職場しか行かなかったらでしょうか。そして世界を旅もしたし最後は中古とはいえヨットのオーナーにもなったのです。それがどうしたものかこの国に来て以来まったくお金に余裕が出来ないのです。そもそも一緒につるんだ奴が悪かったのだとこのごろになってようやくに気づくわたしでした。
その友人Kは前の店は潰れてしまったのにまた金を数千万円借りてきては新しい店の立ち上げに年中バンコクに来ていましたから、わたしはしつこく未払いサラリーを払ってくれよと追い回すのですが、ほとんどすずめの涙でごまかされていました。結局テンプラリーで働いていたチョンブリ工場のオーナーHがかろうじての手助けをそれから8ヶ月に及んだ治療をみてくれたのです。思ったところからの援助はまったく受けられずに、思いもしなかったところからのサポートでした!!


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58キロあった体重は43キロに激変して幽体のごとくに歩いているわたしでしたがチュラ大学病院最後の診察は、何がどうしたってもう働かなければと紹介された、やはりチョンブリにあるキャンパーを作る会社に出向いたばかりで受けられずにしまいました。それ以来わたしは診察を受けていません。仕事場では初めてのマッキントッシュを前にしてとにかくがんばらなければと必死だったのですが、なんと、生まれて初めてのいじめを先輩から経験させられてわずかに2ヶ月で自主退社でした!!

彩はテレビの漫画を見ています、女房殿は洗いものか、アパートのドアがけたたましくたたかれました。女房殿が出て行って二人のタイ人男性となにやらもめています。いつまでたっても埒が明かないようなので幽霊のような私がよろよろと出て行きました。
「どうしたの」
そこには険しい顔つきをした男性二人がわたしを睨みすえています。なぜこやつらは初対面のわたしを威嚇するのかと不思議に思いました。そしたら女房殿はするりとわたしの脇を抜けて部屋の中に引っ込んでしまったのです。やおら男性が廊下に立ったまま私にしゃべり始めました。
「ダンナさんですか?」
「ハイ、そうです」
「奥様がわたしどもから1年前に借金をされたのですが、返済がとどこおっています。よって今日支払いがなければ契約書にサインされているようにだんな様の車(名義は奥さん)をいただいていくことになりますが、いいですか?」
また、やったのかクソッタレ奥方は。それは切り詰めた生活に嫌気が差したのだろうが、すべてふがいないわたしのせいでしょう、とは思いながらも一発怒鳴りました。
「コラーッ、かえせないようなお金を人様から借りるんじゃあねえよ、バカッ」
女房殿はふてった顔で横向いて知らんぷりです。
「それで返済していただけるんでしょうか?」
「ないですよ、そんな大金ひっくり返たってない。だからいいですよパーキングに停めてある車持ってってくださいよ。それでことはすむんでしょう、はい、これ車のキーだから」

またもや八方ふさがりでした。ここまで女房殿にやられたらもう慣れっこになってしまいます。それでも彩の母親です我が嫁です!!


KとFの戦い

ある人に言われました。
「その歳でそこまで金がないのは、もう悪ですよ」

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確かにそうかもしれないなと思うしかないわたしでした。
「貴方が8年も働いて閉めてしまった店のオーナーKはどうして数百万円あると貴方が言うその未払いサラリーを払ってくれないのですか」
「奴がバンコクに来るたびに請求してるんですがね、てきとうにあしらわれていますよ。奴は金がないわけじゃあないんです口がうまいからどこからかうまく金をひっぱっては来るんです。現に新しく日本レストランもウイッタユにオープンしているし中国にはオートバイを作る会社も立ち上げたって言っています。奴に言わせればまずは稼がなくては未払いを払えないのだから投資が先だと私には言い訳をするのですよ。つまりまったくの独善的中華思想そのものですね。いまは、これからバンコクにコンピュター関連の会社を立ち上げるからと日本の大手電気会社の重役とかを接待していますよ。出来た人間ならKのいい加減さがすぐに見抜けるはずなんですがねえ」

つまり東京での学生時代に親友とまで思っていたKが、今、わたしをどん底におとしめているのです。かつてのバブル期に車レース関連では結構目立ったプロだったKがその後車関連から余儀なく足を洗っても同じように自分は成功する人間だという思い込みが先にたってのレストラン経営ですからうまくゆくはずもありません。ウイッタユの店も中国の会社ももう瀬戸際にたたされている現実です。8年間も働かせたかつての友人のわたしにでさえ義理を果たせない奴ですからこうなるのはとうぜんとわたしは思っています。奴は言いました。
「ウイッタユの店ももうどうにも回せないからバンコクを何も知らない日本人に共同経営ともちかけて金を引っ張ってくるよ。秩父の寿司屋のFがこの話に乗ったからな、とにかく金を出させたらこっちのもんさ、そしたら少しはおまえにも回せるからな。どうせ来ても3ヶ月で根を上げてつぶれるさ」

そんな棚から牡丹餅みたいな話があるものかと思ったのですが30歳を少し出たばかりのこの寿司屋のオーナーFは手付けを出したといいます、そしてバンコクにやってきました。ところがKはFにわたしを合わせようとはしたがらないのです。なぜならこの10年間にいかに不手際のレストラン経営をしてきて1億数千万円をただ水に流してしまったのかをわたしがよく知っているからでしょう。かと言ってわたしにしても100円のお金も欲しい時なのですからKを追いまわしています。結果とうとう彼らと食事を一緒にすることになりました。お相撲さんのように威風堂々とした大将Fでしたが、わたしにはこのひとがかんたんにKに騙されているとは思えませんでした。

とにかくKはFからもらった金で店を半分壊して約束の寿司カウンターを作らなくてはいけません。出来るならつぶれる店に金をつぎ込みたくないKはいい加減な大工にいい加減な造作をさせては見せ掛けだけの張子の虎のような寿司ルームを作ったのです。わたしはこの時には工事監督ということでKからすずめの涙のようなお金で数ヶ月雇われていました。ですから、いかに出費を抑えているかはよく知っているのです。

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KもFも日本に仕事が在っていつまでもバンコクにいるわけにもいかないから出たり入ったりしていました。あるときにKが日本に帰っていてFだけが残っていました。そこで四方山話になります。そしたらFはすべてを知っていました!!Kがどれほどいい加減に仕事をしてきた奴かをすでに日本で調べ上げて、今回も半分騙されているのを承知の上で、だったら、この際バンコクの店も会社もいただいちゃおうということで意気込んできたというのです。

そして路頭に迷っている状態のわたしに声をかけてくれたのです。はじめは少しだがサラリーも払うし業績アップしだいでは又考えるという事でした。まったく明日を生きられるかという瀬戸際のわたしでしたから、怨みかさなるKのいい加減な今回のやり方を暴露するのに良心のかけらも必要はありませんでした。

大将FはKと契約書を交わしていてそこには1千数百万円のお金の使い道がすべて領収書なりを伴ってKからFに提示され説明される事になっています。とうぜんそのKの明細書には果てもない上乗せ工事費とかが書かれているわけです。実際の工事費の領収書はこちらが持っているのですから。そこを手はじめに大将のKへの攻撃が始まりました。
と同時に日本からは二番板マレーシアからは料理長とすでに大将の息のかかった右腕が手配されました。ここに寿司店Sは開業しました。

私は40年近くをフリーターまがいで生きてきたのですから、横須賀、横浜、東京、シスコ、NY,と果てもなく色々な店とかでバイトしてきました。しかし尊敬に値するオーナー人格者に出会ったのはこの大将Fがはじめてです。ましてやわたしより30歳近くも年下だなんてオドロキでした。

大将の問いかけに対してKはいい加減な数字の明細書を送ってきたり、言を濁したりと、埒の明かないことをやっていましたが、とうとう大将にタンカを切られて、震えあがり、なおさらに逃げの一手を決め込んだのです。しまいには奴がわたしにボソリと言いました。
「まいったな、俺もうつかれたよ、この店から手を引きたいよ。どうだろうなトミ、大将はこの店もらってくれないかなあ」
還暦に近いわたしと同い年のKがあそこまで二の句も告げないほどに理詰めで30代の若大将に締め上げられたのです。これはショックだったろうと思います。しかし自業自得です。いつか誰かがたたいてやらなければわからない奴だったのですから。その相手をよりによってKは自分から秩父に求めて行ったようなものなのですからこれもバランスのうちの因果でしょう。
「もらってくれないかって、だから、大将が言うように金の使い道と領収書をそろえて明細を明らかにしないと、その話もないんじゃあないの」
「そんなこと言ったってお前、こういう仕事って領収書のない出費が多いんだよ。明細持って説明しろったってむずかしいよな」

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こうしてKはバンコクのあちこちに借金を残したまま我々の前には姿を表さなくなりました。しかし大将が忘れ物でもしたように連絡してきました。
「くそったれKがやるといってた焼肉は出来たんですか、、?」
それがKは大将から預かったお金をどこにどうやって使ったのか、もうまともにはないとか国際電話で言っています。
「そんなこと言ってられないだろう、アンタは大将に焼肉部門も作るからと契約書にサインしているんだから、さっさとやらないとまた絞められるぜ」
「まいったな、わかった何とか金作るからとにかく大工を雇って焼肉テーブルの工事に入ってくれよ」
こうして最低の費用で何とか焼肉のオープンにはこぎつけたのです。

わたしはほとんど骨と皮だけになってしまったような体をふらふらさせながらやっと生きていましたが、まだ小さな娘の彩が嫁に行って子を儲けるまでは生きているのだと単純にきめてそれ以外のことは考えずに日々を送っていました。しかし、お腹がすいたからと以前の調子でぱくぱくと5口も食べるといきなり詰まってしまいます。そして苦しくなって、しまいには腰が抜けて倒れてしまいます。そのまま3〜40分もうなっていれば徐々に食べ物が降りて言って楽になるのですが、つい胃がないのだということを慣れていないから忘れてしまうのです。
何度か苦しい思いをして倒れてからは、とにかくゆっくりとよく噛んで食べるという事を心がけているのです。
それに胃癌で胃を取った人は必ず便秘気味になるといいます。わたしも例に漏れずに何度もえらい便秘で苦しむようになりましたが、知り合いの癌患者からタイに居るならパパイヤだと、この繊維質の果物がよく胃癌による便秘に利くのだと関西ではナンバーワンといわれる癌療法の医者が言ったと教えてくれました。
単純な私はこれだとばかりに飛びついて安いパパイヤを毎日とるようにしました。おどろく事にあれほど苦しんだ便秘がまたたく間に解消してしまいました。
でも時に2〜3日、食べられない事がありますと、てきめんに便秘に逆戻りしてしまいます。気をつけて開けても一日なら大丈夫なのでそのようにしているのです。

だれもが3月で閉めるだろうと予測したウイッタユのレストランSは大将Fの一喝の元、着実に業績を上げていきました。腕の良い料理長も着任して月ごとに売り上げを伸ばしているときに、日本にいる大将Fから又も一喝が入りました。
「築地の魚の自社輸入のライセンスはどうなっているんですかア、、」
これは自称輸入のプロ(車関係では輸出入を何年もKは繰り返してきた)と言っていたKが大将から金を引きだす時にバンコクで寿司屋をやるなら魚を築地から自社輸入してお客に出せば安くて済むから利益になるといったのです。ところが現実にはどこの店でも自社輸入などはしておらずだれもが高い運び屋か

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ら日本の魚を買っていました。われわれの店Sも例外に漏れずに結構きわどいやり方で築地から魚を担いでくる運び屋から高いマグロを買うしかなかったのです。もしくは正規に輸入している日系の食品会社からこれもやはり高くて鮮度が結構にいい加減なネタを買わされることになります。
「いや、それは、、、Kがやるからといって、結局何もやらずに顔を見せなくなってしまったものですから、それきりですが。まったく素人のわれわれには無理かもしれないですよ」
実際問題輸出入に関しては何も知らないわたしでしたから、言葉を濁して大将に返事していたのですが。
「Kの言い分ではまったく正規に税金を空港で払ってマグロを入れられるといっていたんだから、税率は5%だとか、だったら運び屋から買うよりめちゃやすじゃあないですか。やるっきゃあないでしょう。とにかく空港に行ってどうしたらいいのか調べてきてくださいよ」
大将の言い分はもっともでした。
「ハイ、了解しました、やってみます」
数年前に無煙ロースターをKが輸入した時にイエローカード(輸出入カード)を会社で取得したからやったのを思い出して、まずはそれを新たに取りました。

タイ人マネジャーのWにそれをわたして空港に行かせました。彼は何度も何度も行きました。空港のほうでも法的には可能な事だとわかっているらしいのですが、現実に個人商店での魚の輸入は誰もがやってないことだったので、じゃあ、どうするかという感じであっちの事務所へこっちの事務所へとやたらにまわされては疲れ果てていました。それにもめげずに通いつめたのですが、埒がいつまでたってもあきません。とうとう業を煮やした日本の大将。
「とにかく築地サイドは送り出し可能なのだから、ためしに送ってみるから空港で出せるかどうかやってみてくれ」

この頃売出し中のスクンビットの会席料理屋でさえ店のスタッフを週に二回東京に飛ばさせては担いでくるというやり方でした。そこの社長にわたしは言いました。
「うちはこれからネタを築地から直接個人輸入しようと思っているんですよ」
彼はあざけるようにわたしを見て応えました。
「そんなこと素人のあんたたちにできるわけはないでしょう。アタシだって自社輸入しようと色々調べたんですよ。よしんば出来たにしたって半年一年したらとんでもない税金がかかって大変な事になるんですよ。そんなこと知らないでしょう」
個人輸入するということはそのつど空港で税金を支払うはずなのに、どうしてまた支払わなければいけないのかわたしには分かりませんでした。

バンコクドンムアン空港に築地からとにかくマグロが届きました。出せるかどうかやってこいとWを行かせたのですが、色々な事務所をたらいまわしされ

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るだけで拉致があきません、これでは梱包されているドライアイスや氷が解けてしまってせっかくの魚が駄目になってしまいます。焦ったわたしが思いついたのは、Wは根が優しくて正義感だから、たぶん正攻法でせめて押しがいまいち足りないのだろうという事でした。ここはタイです!!結構成せば成るの世界です。だったらうってつけは自称マフィアの我が女房殿だったらいけるのではないかと、号令を出しました。
「まかせときなって、そんなの、魚はもう空港に来てるんでしょ。それを出して来ればいいんでしょ」
「そうだ、出してくればいいんだが時間がない、魚が駄目になっちまうから急いでくれ。多少のアンダーテーブルはOKだからな」
それから2時間後、女房殿から電話が入りました。
「魚出たわよう、今、タクシーに積んだところよ」

やったー、さすがマフィア女房殿捨てたもんじゃないぜとか感心しました。
これをきっかけにしてとにかく女房に出せたんだからマネージャーのおまえに出せないわけがないと次からは強引にWにやらせました。
その理由はわたしの女房殿がどれほどのチンピラマフィアかと常々大将Fに言ってあったから、このまま世話になるとあとが厄介だろうと大将が渋り始めたからです!!
Wにも面子がありますから、とにかく来るたびに出し続けてから、うまく空港の業者に話をつけました。週二回空港で税金を支払ってもらって受け取って店まで運んでもらって手数料込みでいくらという話がOKになったのです。

これはすごい事でした。われわれはどこよりも安くて新鮮な魚や貝類を築地から常にネタケースに並べられるようになったのです。ですから、とうぜんお客への売値も安くて済むのです。そこへ持ってきて心配していた焼肉と寿司の同居という現実はかえってお客に喜ばれ焼肉を食べる前に刺身、食べてからはデザート代わりに何貫かのうまい寿司という思いもしなかった流れが定着してきたのです。それには当然旨い鮨と焼肉でなければなりませんが、レストランS
はその両方ともにクリヤーしていたのです。焼肉はすでに10年前からKがバンコクでやっていたものですから日本の味をそのままにタイ人マネジャーシェフのWがシッカリと受け継いでいました。以前からこの焼肉はアジアで一番旨いとよくお客様に言われていたものですから、根性の入った本物の鮨とあいまって評判はうなぎのぼりに上がるだけでした。

わたしへの8年間の未払いサラリーをそのままにしている、くそったれKが言った魚の個人輸入は可能でした。バンコクのどこの日本レストランもやっていないことをわれわれは成し遂げたのです。それもこれも大将Fの強い一喝があったればこそです。レストランSは成功への道のりを驀進し始めたのです。


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よく食べよく飲む女房殿のお腹が小錦みたいになってきました。わたしはそのお腹をさすりながら思わずつぶやいていました。
「まったくすごい腹だねえ、双子の赤ちゃんでも入ってるみたいだな」
すました顔で女房殿は応えます。
「ビールの飲みすぎに単なる食べすぎよ、ダイエットしよかな、、」
数日したら、女房殿と前にカラオケで一緒に働いていた友人からとつぜん電話がありました。
「アナター知ってますか、いま、ミューちゃんのお腹に赤ちゃんいるの」
いきなりナンなのかとおどろいたわたしです。
「赤ちゃんて、いるわけないでしょう、だって、オレ、、、、」
とか言い渋っていたら。
「ちゃんと調べたほうがいいわよ、ほんとにいるのよ赤ちゃんが」
どうもこの友人の言葉には確信がにじんでいましたから、女房殿に電話で聞いてみました。なぜなら彼女はこのごろお母さんの店の手伝いとか言って時々パチュアップに行っていましたから。
「、、いるわけないでしょうバカネエ。アタシは彩を生んでからパイプカットしてるからもう赤ちゃんはできないのよ」
「そんなこと言ったってアンタの友人は間違いないって言ってたよ!!」
「それはねアタシが彼女の日本人の彼氏に告げ口したから彼からお金がもらえなくなったのよ。その、腹いせにあることないこと言ってるのよ、ほっときなさい」
フン、そんなものかなとか思って聞き流しました。
わたしは、上り坂のレストランSのマネジャーの仕事に没頭していて、また、映画パーフェクトストームの原作者の欺瞞を暴いた自分のホームページの書き込みにも時間を取られいそがしく時は流れていたのです。さきのカラオケの友人からのチクリから1年が過ぎた頃に女房殿が彩と一緒にかわいい赤ちゃんを抱いてきました。
「弟の赤ちゃんよ、手が足りないからアタシがしばらく育ててあげる事にしたの」
ヘー、なんとまあかわいいまん丸な赤ちゃんだった事か、思わずわたしは抱きしめてほお擦りなどして喜んでいました。
しかし、よく見ると、よっく女房殿に似ているのです。それに育て方にしてもまったく親子でなければできないようなかいがいしさで女房殿が動き回っています。ちょっと待てよこれはどうしたって、女房殿の子供だ、わたしは確信しました。
「オイ、このシムちゃんは、おまえの子供だろう?」
「おとうとの、、子どもだって、、言ってるでしょう」
そうかなとか思いながら、だったらどうしたの、こんなかわいい赤ちゃんがだれの子であろうとここにこうして転がってくれているのはわたしにとっては汗かく労働せずしてコウノトリからお宝を授かったようなものではないか。わたしが手付けずで女盛りの女房殿をほっておいたのが原因でしょう。だったら、

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なにも言うことないではないか。彩はもう大喜びでシムを転がしまわってはじゃれあっています。
たしょうは震えを伴った怒りに似たものがこみ上げないのでもなかったのですが、そんなもの、彼女に言えるようなだんな様かいと自分に問いかけるだけで一蹴しました。

女房殿の妹から電話が入りました。
「トミは姉がパチュアップでどうしているのか知っているの。シムちゃんはいったいだれの子なのか知っているの?」
女房殿の友人にしてもこの妹にしても、何も知らないわたしに本当の事を教えたいと思って言ってきてくれるのでしょうが、わたしにとっては迷惑な話でした。
「あのね、シムが誰の子であってもいいんだよ、目の前にいたら黙って育てるだけだろう。ただ、なるべく早くに家を手に入れて彩と一緒に住めるようにして、よしんば女房殿がシムと一緒にパチュアップに行くと言うならしかたないからメイドでも雇って彩を学校に行かせる。だけど、オレから彩の母親を取り上げる事は出来ない。たとえどんな母親であれ彩を生んでくれた母親なのだから、いつでも彩の傍らにはいて欲しいと思っている。親の身勝手で彩を母無し子にはできないんだよ」
「だけどねトミ、いったい姉がどんなふうにテキトウにトミからお金を取っているか分かっているの」
「だいたいはね、分かってるさ。だけどないときはなかったからそれでも何もできなかったし、いままではかわいそうだった。いまはやっと人並みのサラリーがもらえるようになったんだ、その範囲内でなら出来ることはしてやるよ」
どうしてあんなにやくざな姉と離婚もしないでやっていられるものだと妹は思っているようでした。年中喧嘩したり仲直りしたりの繰り返しの姉妹だからきっとこの時も喧嘩していて妹の気分が悪かったのでしょう。しかたなくしぶしぶとようやくに納得した妹でした。

だいたい世間ではこういう事件を機にして二親が離婚するのでしょう。そしたら女房殿が二親にされた同じことを彩にもさせる事になってしまいます。女房殿がたどった余りにも悲惨な幼年期をせめても埋めてやれたらと思ってのこの結婚でした。なのに、ここで同じことをしたならせっかく立ち切ろうとしてきた女房殿の因果を持続させてしまう事になります。ましてや彩を同じ目になぞ決して合わせてよいものではありません。

考えてみれば、オイラの美意識が受け入れられないとかのたまわっていたことへの、これが女房殿の答えなのでしょう。単刀直入にあっけらかんとしているではありませんか。これでバランスが取られた事になります。別に美意識が受け入れられないからといってわたしは女房殿を嫌いになったわけでもないのです。大事な人なのです、娘の母親なのですから。これまた身勝手な男ののたま

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わりでしかないようですね。わたしは自分が感じるままに生きてきました。つまり自分の感性に従うことが人間としての一歩だとも思ってきたわけです。その結果女房殿を傷つけてしまったとしたなら、自分の感性なんて何ほどのものでもないのだと思うのですが、かといって自分を押し殺す事など出来ないわたしのようです。

わたしのようにタイ人と結婚した日本人はいろんな家族形態を演出しています。ある居酒屋のオーナーはわたしの娘と同い年の娘がいるのですが、女房殿とは別居しています。しかし店はダンナと一緒に手伝っているのです。どうしてかと思ったらダンナ曰く働かなければ生活費はやらないということで手伝っているようでした。娘は田舎のおばあちゃんが育てているようで学校が休みに成るとバンコクの父親に合いに来るようです。ですからこのオーナーは自分のアパートと女房殿のアパートのほかに老いた母親のアパートも借りているといっていました。当然田舎のおばあちゃんにもでしょう、仏様のような日本人ですね。

いま1人の知り合いは日本で知り合ったタイ人と一緒になって子を儲けたのですが、バンコクに来てから不仲になり彼はちいさな子どもをつれて日本に帰ろうと空港に行ったのですが、なんとチェックインカウンターにはシッカリと女房殿が仁王立ちしていたようです。その場で取られてしまった人質に等しい子どもの為の仕送りを彼は永遠とつづけています。これも親子のひとつのあり方でしょう。

かと言って日本人に紹介されて日本人と婚約した居酒屋のオーナーもいました。シッカリ、タイの夜の街で遊んできた彼は、
「やっぱり日本の若い女性はいいよねえ、なんというかこうしっくりと来るんだよねえ」
数ヶ月の蜜月が終わっていよいよ結婚という事になりましたが、彼が言います。
「オレ、あいつと結婚するのやめるよ」
「やめるって、来月東京で結婚式じゃあないんですか」
何度もお惚気を聞かされていたわたしですからこの突然の彼の告白にはおどろきました。
「そうなんだけどさあ、実はこの間彼女から手紙もらったんだけど、それがね赤のボールペンで全部書かれているんだよ、だから、どうして赤字なのと聞いてみたさ、そしたら手元に赤しかなかったからと応えてきたよ。そんなのっておかしいじゃあない普通じゃあないよ。だからオレ気持ち悪くなってさ、とっても結婚続ける気をなくしてしまったよ。彼女にも言ったさ、結婚やめようって。そしたら日本の会社はやめてしまったし結婚式の招待状も出してしまったし同僚からはお祝いだってもらってしまっているんだからいまさら結婚式を挙げないなんて出来ない。どうしてもアタシと結婚できないっていうのならとりあえず対面もあるから結婚式は挙げてくださいってさ。そして半年はバンコクで一緒に暮らしてくれって。それからなら性格の不一致とか言って離婚も出来

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るでしょうって言うんだよ。しょうもないからOKしたさ。だから来月の結婚式は予定通りに東京で上げるよ。本当の事は俺の二親にもいえないよなあ」
これが彼の言い分でした!!
そうして式を終えて約束の半年間はと一緒に彼らはバンコクで暮らし始めたのです。ようやくに半年が過ぎて晴れて彼が自由の身に成れるときが来ました。そしたら彼女から著しく自尊心を傷つけられたのだからと慰謝料の請求が来たようです。なんと1千数百万円です。
「どうするんですかそんな大金」
「しょうもないでしょう何とかしなくては別れられないんだから。親から生前財産分与でもしてもらって何回かに分けて払うよ」
そのようにして彼は現実に支払ったのです。いったいあの赤字のラブレターの意味するところはナンだったのでしょう。結末は単に彼が1千数百万円を損しただけです!!ここまで来るとわたしなどは疑ってしまいます。この若い日本人女性を紹介した人もぐるになっての金の出そうな彼をねらってのやらせではなかったのかと。こうなってくるとわたしにしてみたらタイ人女性のほうがまだわかりやすくてかわいげがあるとか思ってしまいます。

店の成功につれて大将Fは現地雇いとは思えないサラリーをわたしにくれるようになり、バンコクに来て以来10数年ぶりに銀行に蓄えもできるようになりましたから胃癌療養で迷惑をかけた友人知人たちにお金の返済を始めました。ところがNYからの友人外資系のエリートYはちょうどバンコクに見えたときに有難うと現金を封筒に入れて目の前に置いたのに、
「なによこれ、やめてくれる。あれはねトミちゃんへの見舞金として出したものなのよ、いやあねえしまってよ、受け取れないは。それより他にもいろいろな人から借りたんでしょう、そっちへと返してあげなさいよ」
いくら言っても聞かないので、そうする事にしました。わたしと女房殿が出会うキッカケを作ってくれた友人Hへはいただいた見舞金のほかに女房のミニマートの時の借金が残っていたのでこれを返済しました。
チョンブリの工場のオーナーへは本当に世話になって、この人には2回に分けて返済をしたのですが、最後の返済が終わった数週間後にバンコク内の知り合いから電話がありました。
「彼ね、仕事で東京に行っていたらしいけど、買い物に行ったコンビニの前で急に倒れたらしいよ、心筋梗塞だとか、、、」
「、、、、、」言葉もありませんでした。

癌腫瘍を取りのぞくために胃の3/4を切りとってから、早5年目になりました。この年を乗り切れたならほとんど胃癌再発や転移の心配はないといわれています。強がりはいっていても薄氷を踏むおもいでの毎日でした。一度に普通の食事量をとることができないのだから何度にも分けて少しづつお腹に入れるしかないのですが、こんなお行儀の悪い事が通常の勤めに出たら許されるわけもありません。こんなことも原因してチョンブリキャンパー製作会社では先輩のい

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じめにあい自主退社を余儀なくされました。そして少しでもお腹が空くと蓄えた力がないものだからめまいはするし、まっすぐ歩く事さえ出来なくなるのです。あるべきものがないということはそういうことなのでした。

胃癌宣告を受けて頭が真っ白になって、だったら入水自殺をしたらすべてが丸く収まるのかと悩んでいた時に東京にいた、クソッタレオーナーのKに電話して、現状を伝えたのですが彼の返答がわたしを勇気付けてくれてチュラロンコン大学病院での手術を受けることになったのです。
「ナンだって、胃癌だ、、、。5センチかよ、どうってことないよ胃を切り取っちゃえばいいんだ。いまどき日本じゃあ胃癌で死ぬ奴なんてほとんどいないよ。もっともタイじゃわかんないけどな。オレの知り合いにも胃癌で切り取った奴がいるけどもう7年になるかなピンピンして一緒になってビール飲んでるよ」
やつのこののたまわりには、ほんとに知識のなかったわたしにはとても救いになりました。

その年の前年にパーフェクトストームが上映されて原作者セバスチャンユ