episode 18 彩 AYA
1998〜2007 SWEET HEART AYA
予感・・・日本を後にしたのが1969年24歳の時、それ以来とめどない放浪の果てに気がついたらバンコクにいて私は51歳になっていました。道を追いかけることに疲れた空っぽな私がいました。そんな私に突然に強烈なインスピレーションがきたのです。この予感は翌年には私が始めての結婚をして珠のような娘を授かると言うものでした。独身のままに50を迎えて私の体の生理がいい加減にしろよと見させた予感だったのかもしれません。 あまりに鮮烈に沸きあがってくるイメイジに私自身驚きながらも、それは確固として起こる現実だろうと確信せざるを得ませんでした。私はすぐに行動を始めました。迎える女房とすぐに生まれてくるだろう娘のために2部屋のアパートを借りたのです。
出会い・・・ 私はカラオケバーには興味を示さない人間です。あそこには身勝手な私の美意識をくすぐる何物も感じられないからです。しかし、日本から古い友人がバンコクへと遊びに来たときには付き合いで年に数回は出向きます。そうして出向いたカラオケに私好みのホステスがいました。「ホラ、オイラの嫁さんこのテーブルへおいでよ」 と、冗談でやっていたら。「ネエ、結婚しよ。アタシ子供が欲しいわ」 このときは、まさかと聞き流していました。しかし、これがきっかけで彼女の私に対する猛アタックが始まったのです。わたしの仕事場にまでやってきては、涙を浮かべながら訴えるのです!! しまいには同僚までがこれを見ていて,「いいんじゃない似合うよ一緒になったら」 と、けしかける始末でした。
そんなときにソファーに腰掛けて、さめざめとしている彼女を見ていたら、昨年に予感があった私が授かる珠のような娘の面影が、彼女の顔に重なって浮き上がってきたのです。これには驚きました、、、1997年に出会うと激しく予感された私と赤い糸で結ばれている女性とは、このカラオケクラブのホステス通称ミューというこの娘の事かと考えてしまいました!!
そして50年間の私の生き様を振り返ってみて、たどった数人の女性との別離の展開のおぞましさ等をかんがみてみたら、この彼女との出会いは私らしい落ちではないかと思うようになりました。中国人の両親を持ってタイに生まれてすぐに里子に出されて!!いろいろな家を転々として育ってきたと言う彼女、、、、!?父親は行方不明、、母親はいるのについぞ二親の愛情のかけらももらえないままに転がされて大きくなった彼女!!だから泣くわけにはいかなかったと、何処にいても喧嘩するしかなかったと、ひとりなんだからと、、、言い聞かせては自称チンピラマフイヤと嘯く彼女が出来上がって、、、スクンビットのカラオケバーで私と出あったのです。
私には想像もつかない彼女の生きてきた境遇でした。この二親に何があったかは知らないが、生きているらしいのに自分たちの娘に対して一切の甘えや抱擁を拒絶したのです。幼い子にとってそれがどれほどの寂しさを呼び起こすものか経験のない私には分かりようもないのですが、想像をする事は出来ました、、、!!その結果、、彼女には初めから用意されていなかった家庭のぬくもりというものをせめて私と共に生きて分かち合えたらと考え、この偶然の出会いは必然となりました。
結婚・・・ 1997年・・・私は彼女と結婚する事にしました。翌年には必ず可愛い娘を授かる事を確信しながらです。本名チュティナンサイヘン(中国名)24歳??と私52歳はバンコクで籍を入れ、すぐに日本の戸籍にも入れました。
懐妊・・・1997年・・・太陽と地球そして月が一直線上に並んだ皆既月食の夜の闇、、その稀な宇宙のバランスの下に彩は母親の胎内にその命を宿しました。ですから私にとっては彩は星の子なのです!!
この夜私と彼女は皆既月食の只中にやや子を授かる確信と希望に震えて交わりました。人と人との交合がこれほどまでに満たされてあるものかと思い知らされた天界のバランスの下の一夜でした。生まれてくる新しい命が与えてくれた賜物だったのかと思います。



母親の胎内で小さな命が動き始めました、その鼓動をこの手にじかに感じたときの至福はいかばかりのものでしょう。絶句です。

誕生・・・1998年7月3日午後11時15分、、パパ生まれた彩に挨拶をして感極まり、、号泣!!
生まれてきた、予感とまったく同じの娘彩を抱き上げて私はおそるおそる挨拶をしてみました。「彩ちゃん、、僕がパパですよ、、良かったね、良かったね、、ちゃんと生まれてよかったね、、、」ここまでやっとの思いで口にしたのですが、余りの感動に口が止まりました。そしてこみ上げて絶句でした。熱い涙が溢れました。これを見ている女房殿と彼女の妹は、、、、まったく呆れ顔で微笑んでいました。












小さな手が、本当に小さな手が、又、小さな足が、動いているのです。50歳を過ぎての初婚、初めての子供、それもまったく予感したままの珠のような娘です。オジンのパパが感極まってしまうのはお分かりいただけると思うのですが、いかがですか!!







新しい宇宙が誕生したのです。私の生活の一切が娘彩を中心にして回り始めました。
5日目・・・ママ病院のロビーで彩をかかえて泣き叫ぶ!!
通常タイの日本人は子供を生むときはバムルンラッド病院とかの私立を選び約5万バーツで一週間ほどは入院するらしいのですが、この時の私はお金がなかったので女房が気を利かせてタイ人がよくいく病院で産みました。5千バーツで出産後3日で退院でした。そして2日目に泣き止まない彩を抱えて女房殿はこの子はきっと病気なんだからドクターに見せなくてはいけないと騒ぎ出しました。しかしよく見てみると元気に見えるのです、ただ泣いているのですが、きっとお腹がすいているんだよと私が言いますと女房殿はそんなことはない、さっきからずっとおっぱいを飲んでるんだからといって聞きません!!ここで私は思い出したのです、彩が生まれる前に読んだ子育ての本に書いてあった、赤ちゃんを生んだばかりの母親のお乳は時にまだでにくい事があると。ですから、きっとそうなのだから、粉ミルクを飲ませたらいいんじゃあないのかなと言ったのですが、女房殿は聞きません。仕方もないから私は仕事にいかなくてはいけないからと女房と彩を車に載せて病院の入り口で下ろしました。結果、、初めての経験で精神的につかれきっていたのでしょう我が女房殿は、病院のロビーに入ったとたんに泣いてわめいて訴えたそうです。
「この子はー、この子はー病気なんです助けてーッ」
そしてドクター曰く、、、この子は元気ですよ、、お腹がすいてるだけです、まだよく母乳が出ないみたいですね粉ミルクをあげましょう。当然彩はお腹が満たされてご満悦だったそうです。
拒絶・・・困った事が起きました!!私が女房殿を抱けなくなってしまったのです。妊娠線が縦横に走った彼女のお腹を見たら百年の恋もいっぺんに冷めてしまったのです。彩を生んでくれたおかげでそうなったのに男の風上にも置けない人間失格としか言いようのない私は、クソの役にも立たない、、、、(おいらの美意識が受けいれられない)、、、とかいう理由で彼女を拒絶してすべての愛情は彩のみに注がれていきました。こんなことが結婚をした男女に許されるわけもありません。これから女房殿の私に対する反抗が始まったのです。ですからこれから起こる女房殿の悪行の原因は全て私にあるといわなければならないのです。

1歳・・・彩が生まれて、ゆきつけのトンローの居酒屋のカウンターでマスターに言われました。「トミさんのかみさん幾つだって?」、、「俺のかみさん、、26歳になったんかなー」とか応えましたら、このマスターが驚く事を言いました。「それ嘘らしいよ本当は今、38歳らしいよ、、、、」。私はまったく考えてもいなかったことなので本当にびっくりしました。でも3〜4歳はごまかしてるのかなあとかは思った事もありましたがまさか12歳もごまかすとは半端ではありません。これがチンピラマフイヤの我が女房との最初のオドロキでした。しかし私の年からいって、、、それでも15歳も年下なのですから、、何の問題もないことでした!!
それを女房に聞いてみました、そしたら 「アラ、だってIDカードには24歳って書いてあったでしょう」と、言ってシラーッとしています。だからどうして身分証明書には嘘が書かれているんだと聞いたら、役場に賄賂を払って若く書き換えてもらったんだと言います。恐るべしタイ国の役場の現状でした。





2歳・・・パパ、彩を叩く!!恐怖にゆがんだ彩の顔を見て、二度と叩くまいと思いました!!
私は彩をたらいに入れて体を洗ってあげました。彩はキャッキャと喜んで水遊びをしています。ようやくに体を拭いてさあ服を着せようと思ったら、部屋中を駆け巡っては私に服を着させてくれませんでした。ママがいないときで私と彩だけだったのです。何度も呼び又捕まえようとするのですがオジンのパパより彩のほうがすばやいのです、、、!!彩は楽しんでいるのです、怖いママがいなくていつも甘いパパだけなのだからと、、、私を舐めてしまっているのでした。ほとほとに、こまってしまった私は20分余り裸の彩を追い回した挙句にとうとう切れてしまいました、、!!
「彩ッ、、いい加減にしないかあーッ」やっと捕まえたその足のうらを平手で思いっきりはたきました、、「マイ ダイ」私は思いっきり叫んでいました!!
急変したパパの激怒に震えおののいた彩でした、、、、「この服を着ないかあーッ」、、、手に持った服をあやの足元に投げて私は瞬間殺意さえ持って、、、、小さな彩を睨みつけたのです、、、!!そして又たたきそうに成る自分を押さえる為にひとりベランダに出て頭を冷やしてみました。彩がベッドの上で立ち上がってシャツを両手ににぎりしめて泣きながら私を見つめて訴えました!!
「パッパーッ パッパーッ 彩シャツ自分で着たことないよー パッパーッ パッパーッ 彩,着れないようーー」
そう訴えているのでした。そのありようには恐怖が浮かびこの世のものとは思えない淋しく救われようのない表情なのでした!!実の父親が子供にこんな思いをさせるものなのかと私は自分のしている事に、、それこそ彩が感じているような恐怖に襲われたのです.嗚呼、こんな事、こんな事、、、してはいけない、、、こんなこと、、小さな彩にしてはいけない。この時私は自分に誓いました、、二度とこれからの生涯に彩に対して手を上げたりはすまいと。






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このことがあってからかわいそうに彩は、私が、、、「マイ ダイ」「だめだよ」と言うたびにこの時にパパから与えられた恐怖を瞬間に思い出すのでしょう、小さな体をビッと震わせて仁王立ちになり私の顔をうかがいます、、、、!!この反応が1年ぐらいは続きました。
ナントいう事を私は彩にしたのでしょうか、この償いは生涯しなければいけないものになりました。つまり、私にとっては私の家族に対して(母親と娘)償いをしつづけなければ成らないと言う結果を私自身が生み出してしまったのです。このことを踏まえたうえでこれからの女房殿との出来事を判断していただけたのなら、尋常ではありえないような私の家族の現状を理解していただけると思います。
3歳・・・彩の覚悟・・母親が出かけていていないときに。余りにいたずらが過ぎる彩をしかりました。彩は泣きながらこの場にはいない母親を呼びます「マッマー、マッマー」。そして、私が出かけていて母親と二人のときは、しかられると「パッパー、パッパー」と言うそうです。そして、私は思うのです。とりあえず二親の名を呼べる彩は幸せなんだと。なぜなら彩の母親チュティナンは、双子で生まれてすぐに彼女のみ里子に出されたと言います。どういう理由でかわ分からないが二親が生きているのに彼女は両親には育てられずに、預けられ先を転々としながら育ったそうです。だから泣くわけにはいかなかったと言います.泣いたって誰も助けてはくれない。だから喧嘩するしかなかったと。私には想像も出来ない世界でした。彩をそんな目にあわせてはいけない。だから私は母親の浪費もうそつきも我慢しなくてはいけない。すがるもののなかったかわいそうなこの母親を、せめても私が包んであげなくてはいけない。これが私に与えられたバランスなのだから。彩を私に授けてくれた母親は、それだけで存在価値があるのだから。しかしチンピラマフィアを名乗るわが女房殿の余りの悪業に、時に彼女の喉仏を噛み切る自分を想像しては慄然とする、わたしも、また、いたのです。
そんな私と母親を見ていた彩でした。もしかしたら二親ともが自分の前から消えてしまうかもしれないと言う恐怖が3歳の彩にはすでにあったように思います。これは母親のたどった道その子も歩くと言った、わたしの生みの母の言葉ですが、これが、もしかしたら彩にも当はまってしまうのかと私は恐怖をおぼえました。決してそんな目に彩をあわせてはいけない。これが私の覚悟になりました。そんな頃、私が仕事、母親もテレビドラマの脇役の仕事とかはいるとよくおばさんの家に彩を預けるときがありました。こんな時が最悪でした。母親は出かけていてもういない,だからわたしが彩をおばさんの家に預けて仕事にいかなくてはなりません。「だからね、あや、今夜はおばさんの家で寝るんだよ」 わたしがそう言うと、たちまちに彩の顔はゆがみ曇って、もう今にも泣きそうになるのでした「パパ、彩、おばさんの家行かない、、、彩、パパと一緒にいる」このときにはママはもう仕事に行ってしまっているのだからいないのです。そして、パパも行ってしまったら、もしかしたら、もう二人とも彩のところえは帰ってこないかもしれない。小さな、とっても小さな手でわたしの足にしがみつきながら、3歳の彩はこのような恐怖に襲われているのが私には痛いほどに分かりました。なぜなら、私と女房の、どうにも仕様がないどろどろな、余り声を荒げない、戦いを、小さな彩はその全身に感じていたのでしょうから。そんな彩を車に載せて近くのおばさんの家に向かいます。彩は助手席で泣き叫びます「パッパーパッパー、あやいかないよー、あやパッパーと一緒にしごとにいくよー」 私は身を切られる思いで、それでも車を走らせました。そして、おばさんの家に着きます。ここまで来てしまうと彩はピタと泣き止むのです。車から飛び降りておばさんの名を呼びながら、その懐に飛び込み、2度と私にはふりむこうともしません。よしんば私が「彩、パパ、おしごといってくるからね、あしたむかえにくるよ」そういっても見向きもしないのです。ここに彩の覚悟が見えるのです。この覚悟は母親からの血がさせるものと思いました。こんな思いを、こんなに小さな彩にさせてはいけない。そう思いながらこの体引き裂かれろ想いで重いハンドルを握って仕事にいく私でした。
4歳・・・あやから仕事場に電話がありました。「パッパー」そういった後には何か言いよどんでいます。どうしたのかと思って受話器に聞き耳を立てると、ママの声がかすかに聞こえるのです?何かあやにささやいています。「あや、ぱぱにねママお金ないから、お小遣い銀行に振り込みなさいって」そう言っているのです。いつものことだから、このお金の無心をパパにするのがあやはいやなのです。だからあやは電話口で私にこういいます「パッパーママがね・・・バババババッバーっていってるよー」だから私も「そう、ママがバババババッバーっていってるの。うんわかったよ。ところであやなにしてるのかな、ぱぱねあやがこいしいよ」と、私が本音を伝えます。するとあやはまた頭を回転させるのです。あやにだけ恋しいって言ったら、それではママがかわいそうではないかとです。「あやもパッパーが恋しいよ。デモねパパ、じゃあママは?」このあやの質問には、正直驚きました。「え、ママ!?・・パパがママも恋しいかって。・・あや、あたりまえでしょう。パパはね、そうだよママも恋しいよ!!」何と歯切れの悪い返事だったことでしょう。彩は、安心したように声を張り上げました「マッマーマッマーねえ、パッパーがねえ、ママのことも恋しいって」この三人の問答の中で誰がいちばん心根がやさしくて人間味があるかと言うと、私とママは失格で、これは彩に軍牌を上げるしかない現実でした。

上左の彩、の写真は2002年のタイ正月(ソンクラン)の日に私がBKKチュラロンコン大学病院で胃癌のために胃の3/4を5時間もかけて7人の医学生のモルモットになりながら切り取っている最中に、、、我が女房殿は4歳になった彩にドレスを着せて化粧をしルンピニーバザーで開かれた子供美人コンテストに出させていました。その結果並みいる美人子供たちの中にあって彩は2位の表彰台に立ったようです!!賞金とシルバーのトロフィーをもらったと、翌日に病院のベッドでうなっているパッパーのところへとやってきました「パッパーパッパーッあやこれもらったよっ、、、、ねええ、、、パッパーッ」
5歳・・この写真は女房の妹ファミリーとおばさんファミリーと一緒に遊園地に遊びに行ったときのものです。
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7歳・・・彩は小学生になり、おばさんの家から学校に通っています。私は毎週土曜日に彩とでデートします。しかしできたらわたしは彩と一緒に生活したいのにふらついている女房殿がいい加減極まりないのでそれもままならない。何とかしないといけない。二親は子供と一緒にいるべきなのだ。でもうそつきの塊みたいな女房と一緒に暮らしたら彩も同じになってしまうのか。今のおばさんの家にいたなら多少はよくなって育ってくれるのだろうか。悩んでいる駄目親父である。

女房が彩の学費にかこつけて私から小遣いをせしめました、その額は現実に学校に支払うお金の10倍でした!?なぜ、それが分かったのかと言うと、現実を知っているおばさんが見るに見かねて、私に進言したのです。取り合えづ怒った私です。女房に伝えました「もうお前には彩の学校の金はやらん、これからはおばさんにやるからそう思え。キサマは彩を育てる事もせずにおばさんに預けたままで、とんでもない奴だ。彩を育ててこそ母親だ、だったら金もやるが、育てもしない奴にはもう金はやらん。これからは彩が世話になってるおばさんにお金は渡すからな、分かったか、このバカヤロウ」そうまくし立てましたら、答えが返ってきました!!「分かったわよ、だったら、彩をあたしがいるパチュアップに連れてくるは、今から1ヶ月は学校が休みだから。その後は私がバンコクに彩と一緒に行って学校にいかせるはよ。それでいいんでしょう。もうおばさんには頼まないから、あたしがやる」「できるのか、いい加減なキサマに、彩の面倒を全部見る事が」「できるわよ!!」
ここで私は悩みました。一体、この母親に彩を任せたら、アヤも同じにうそつきになってしまうのだろうかと。しかし、どんな母親であれ彩には実の母親と一緒にいるのが一番いいはずだとも思うのです、ですから彩に聞いてみました。「彩、ママがね、1ヶ月間パチュアップの田舎へ彩を連れて行くといってるけど、どうする。パパはね、彩がママと一緒にいたら同じようにうそつきになってしまわないかと心配するんだけれど!!」そうしたら、アヤからはっきりと大きな声でいわれました。「パパ、ママの事そんな風に言うけど、じゃあ、パパはどうなの!!パパはマレン(癌)になっておなかを切ったね、だから、お医者さんがタバコはやめなさいって言ってるのに、アヤだってパパがタバコ一本吸うたびにお尻を10回叩いてるでしょう、、、、。それでもパパはタバコをやめないじゃないか!!車の灰皿に入ってる吸殻と今日吸ったので、アヤはパパのお尻をあと120回たたくからね、、分かった、パッパー」 私は驚きました。彩はママの肩を持って、いい加減なパパに怒りました。良かった、これでほっとしました、アヤはきっとママンと一緒がいいのだ。私は彩に携帯を与えました。「これでね毎日ベッドに入る前にパパに、お休み、って電話してくれるかい。パパは毎日一回でいいから彩の声が聞きたいよ」「オッケー、パッパー」 7歳の彩に叱られ、教えられる、61歳になったパッパーである。
彩が撮ったサイアムパラゴン水族館BKKのお魚たち









水槽にとらわれてしまったかわいそうな魚たちですが海の底を見た事のない彩にとっては楽しいオドロキでした。全部を観覧してでてしまったのに、もう一度見ると言って聞かない彩にとうとうほだされてしまい、又入場料を支払ってもどると言うふがいないパッパーでした。
NYのアートリーグで共にアートを学んだミコが30年振りに友人と共に尋ねてきました。彩に日本の折り紙を教えてくれました。






南タイのパチュアップにいるらしい女房殿が彩を迎えにバンコクに来ました。6ヶ月になるかわいい赤ちゃんを連れてきました。彼女いわくこの赤ちゃんは弟の赤ちゃんであって自分が月3000バーツで預かって育てているのだといいます!?とにかく久しぶりに親子3人とプラス赤ちゃん(シムちゃん)でにぎやかにすごしたのですが、シムちゃんをあやす女房殿を見ていて私は直感しました。この赤ちゃんは女房殿が生んだ子供だろうと?だから私は聞いてみました「この赤ちゃんはお前の子供だろう?」すかさず返事が返ってきました「何バカなこと言ってるのよ、アタシは彩を生んでからパイプカットしたからもう子供は生めないのよ。このシムちゃんは弟の子だって言ってるじゃあない」
したたかな女房どの相手に言葉で言い合ったって私が負けるのはもう決まっているのだから、私は言い合うのはあきらめました。そんなことより、もうとってもかわいいのです、このシムちゃんがです!!私は彩とシムちゃんと三つ巴になって転がりまわりました。もしかしたら、シムは彩の妹かもしれない。だったらラッキー以外の何者でもないではないか!!それに初対面の私を見て笑うシムの本能からの訴えとも感じられる因縁籠もった動作は無条件に私をしてシッカリとシムを抱きしめさせてしまうのでした。たかだか6月の赤子が自分の未来をかけて意思表示しているのだとしか私には思えませんでした、、、、。私は言葉をなくしました。それに私の女房殿をはいはいしながらとにかく離れてはいられないと追い掛け回すシムの動作にも異常なものを感じました。彩の小さかった頃とおなじです、いつどこえいってしまうか分からないこの母親を、必死に追い求めるのです。その迫力には悲哀がこもっているのです。不憫です。

結果、彩は母親ともども南タイのパテュアップへと行ってしまいました!! 毎週のウイークエンドにはパパに会いにバンコクへと連れてくると言う約束で。ここで私はパテュアップの現実を考えないわけにはいきませんでした。つまりそこにはシムの父親がいる事になります。我が女房殿の新しい恋人と言うかだんなが一緒に彩と暮らしているわけです。しかし近い将来に、私は彩と暮らすために二部屋のアパートをバンコクに借りるつもりでいます。この時に女房殿がシムと一緒に来るというなら受け入れるでしょう。わたしがあやとシムを育てる事はやぶさかではありません。もしくは、女房殿がシムと新しいだんなと一緒にパテュアップに残ると言うならそれもいいでしょう。私はメイドを雇って彩を育てる事になります。しかし、私の本音はどうしても彩からママを取り上げたくはないのです。ですから、出来たら彩、ママ、シム、そして私の4人で暮らせたらベストと思っています。
MAR 2006 彩7歳の記念撮影


生まれたばかりの彩を見て感極まり、号泣をしたあの日から、、早いものです、もう7年が過ぎました。いよいよ彩は天使だった存在から汚濁にまみれた人間界へと足を踏み入れました!!このパパとこのママの娘です、尋常な生き方をするとは思えないのですが二親の単細胞な面は受け継いでいるものと思われますから、何があっても結果幸せを感じて生きてくれるでしょう。そう願っています。





この記念撮影をしたときには私61歳女房殿は45歳になっているのですが、とてもその歳には見えなくはありませんか!!





彩は星の子ですよ、天界のバランスの内に授かった命です、がんばって生きて行こうね
15 APR 2006 アンダマン海 (北緯7度)
あのパーフェクトストームの天海荒れ狂った協奏曲から15年の月日が流れました。南の海にこがれてNYを船出したボサラ号でしたが、その夢はまったくに打ち砕かれて霧散しました。私はタンカーパールにレスキューされた後にルーマニアまで航海をして日本大使館員によって強制送還されました!!南の海への思いを捨てきれぬままに一切をなくした私は唯生きるために日々を送っていました。22年間離れていた故国にわずかに1年半いて南の国タイでの仕事が入ってきました。レストランのマネジャーと言うのは私の興味をそそる仕事ではなかったのですが、浦島太郎そのままの日本にいるよりもせめて南の海に近いところへといったほうがいいかもしれないという安易な気持ちで私はバンコクへと移住しました。ところが、ここの社長がレストラン経営の才能がまったくない人で約10年間を赤字のままに私は飼い殺しになりました。挙句に胃潰瘍、胃癌と手術をしました。よって夢にまで見る南の海インド洋のピピレイ島がすぐそこにあるのに私は行く事もできずにタイ国在住13年を迎えたのです。しかし私はこの地で愛を手に入れました。50を過ぎてようやくに嫁をもらい娘をもうけました。この娘、アヤには無条件の愛の交際が約束されていたのです。なおかつ私が勤めていた赤字続きのレストランに新しい経営者が入ってきてたちまちにして黒字の店にたたき上げました。よって私は10数年ぶりに人並みなサラリーがいただけるようになったのです。なおかつ新経営者福島忠(34歳)は2006年のタイの正月(ソンクラン)に私を南の夢の島、、、、ピピ島へと誘ったのです。私は娘彩(7歳)を伴いスピードボートをチャーターしてこがれ続けた夢の南海の島に、入り江に遊びました。




ピピ島の浜から数十分のクルージングでピピレイ島に到着しました。


ピピレイ島にそそり立つ岸壁の下部は幾年月の風波に洗われて侵食されていました。余りの鬼気迫る景観に娘彩は「パッパー怖いよー」と叫びます。
木々たちは直壁にへばりつき根を張って、その葉に太陽を浴びていました。孤島は緑の命たちに包まれていました。
シュノーケリングを楽しみました。たくさんの魚たちが一緒に泳いでくれました。
透明にすける藍の海面に魚たち、峡谷に渡る風には太陽の恵みが含まれていました。まさに私が夢に見た南の島の楽園にふさわしいラウンドスケープでした。


このタイメイドのスピードボートをチャーターしてのクルージングでした。世界の海を航海してきたヨットたちもたくさんこの周囲に憩っていました。まさに彼らにとっての、ひとつの南の楽園のゴールだったでしょう。


たくさんの魚たちをボートのデッキから見ている分には彩は喜んでいたのですが、海に入れたら自分に群がってくるような魚たちをまのあたりにして怖がってしまいました。仕方ありませんからすぐにデッキに返してあげました。


福島忠34歳〔鮨忠&カーニバルBKK,鮨忠秩父オーナー) www.sushicyu.com お相撲さんのような大将福島の横顔です。





このピピレイ島へのクルージングは、私のひとつの区切りになることと思います。この南の楽園秘境へのクルージングを私と彩に演出してくれた鮨忠&カーニバルのオーナー大将福島は限りない成功を自ら収める事の出来る人格者なのでしょう。そこへとダブらせる事の出来る私を受け入れてくれているゆえの幸の偶然は、今までの私の経験から言って計り知れないものがあることでしょう。そしてこれからの彩の行く末と、今一度ボートのオーナーになることを夢見て私は日々の仕事に励む事でしょう。
彩八歳の誕生日。
2006年7月3日、この特別な日に世界では何が起こっているかと思ったら、ヒデの引退でした!!私は彼の親父殿とはバンコクで多少からみあった仲ですから、因縁薄からずです!!そして私が生まれてこの彩の妹!!シムちゃんぐらいのときに戦艦大和がアメリカによって撃沈されました。その最後の出撃五時間前の写真が公開されていました。











サッカー:中田 MBA取得へ 第2の人生は実業家
現役引退を表明したMF中田英寿(29)が米ハーバード大に入学して経営学修士(MBA)を取得する計画を持っていることが、明らかになった。03年7月からは東ハトの執行役員に就任するなど現役時代もピッチ外で多角的な才能を見せており、引退は大きな可能性を秘めた新たな人生のスタートとなる。






ヒデの親父が私にいっていました、ヒデは世界の頂点に立つのだとそれもビジネスの世界でと、あいつはスポーツだけでは終わらないと。まさに親父殿が言ったとおりの展開になってきました。
ルンピニー公園BKK
私のアパートの近くには広大なルンピニー公園があります。彩と私は連れ立ってよくこの緑のオアシスへと遊びに行きます。バンコクの真ん中にこんなに緑があるなんて私にとってはNYでのセントラルパークの思い出につながるものです。





だいたいはボートに乗って魚に餌付をやるのが彩は大好きです。それが飽きると今度は砂場に行きます。ブランコ滑り台に回転盤と数時間彩は駆け回ります。どこにこんなにエネルギーが隠れているのかとふらふら歩いているだけのパッパーにはオドロキです。




NOV 2006年
南タイのパチュアップに行っていた彩がバンコクの学校に再入学するために帰ってきました。チャオプラヤ河の向こう岸にある学校の近くに部屋を借りてママと彩とベイビーのシム(1歳)が暮らしています。私のアパートとも近くなったので週の半分は一緒にいられるようになりました。これでだいぶ安心なのですが、、何とか家を手に入れて家族4人が?いつも一緒にいられるようにしないといけません。




シムはママをおいかけ、彩を追いかけてと大変忙しく部屋を走り回ります。ナンにでも手を伸ばし好奇心旺盛な腕白です。赤子とは愛されるだけが生きがいのような代物です。




朝から晩までお腹が空いたら泣き、眠くなったら眠る、それに唯奉仕するだけの母親とは凄いものです。この二人の娘の幸せを心からいのらづには居られません。ママが余りにシムをかわいがるとお姉さんの彩はやきもちを焼きます。だからママとシムのところへと時には強引に割り込んでいくのです。




家に赤子が居るという事がこんなにも部屋を暖かくしてくれる事に驚く私です。なぜって私は長いこと愛に飢えていたのですから!!ようやくに一歳を過ぎたシムは始めて言葉を喋り始めました、、、なんとママのまねをして「アヤーッ、、アッヤーッ」と叫んでは8歳になってる彩をたたきにいきます!!いっつも彩に怒鳴っている母親のまねをするのです。困った事にまったく母親の言動をそっくり真似しているのですが、これを見て母親曰く、、、このシムは立派にマフィアに育てて見せるはとにんまりとほくそえんでいるのです。まったく、、何を考えているのやら。
家族
37歳のときに十五年追いかけた絵描道をNYで断念していらい明日への生きる目標を持てづに空ろだった私に気がついたら今62歳になり家族がいます。そしてこの家族がいること自体毎日の生きる証になっています。追いかける事を辞めて求める事を辞めて何かになろうとすることを辞めて。初めて、感じている日々の充実感が今あります。家族に対する無条件の愛の発露はこの上ない喜びです。そして目の前にあった仕事に全身で唯ぶつかってゆきます。そこにもすぐれたリーダー(まさか私のリーダーになる人が28歳も年下の34歳の鮨忠の福島オーナーだったとは思いもしなかったことです)に出会ったゆえに精神的にも物理的にも満たされた今があります。感謝です!!
JAN 2007年 お正月家族旅行 バリ島
2007年お正月、彩と女房殿と三人で南太平洋バリ島へと出かけました。わたしにとっては初めての南半球です。イスラムのインドネシアにあってこの島だけはヒンドーー色に彩られています。







われわれの取った宿はクラブメッドバリです。このホテルはツアー料金に三食食べ放題と呑み放題、またエンターテイメントの料金が全て含まれていて、広大な敷地のうちどこに行っても楽しめるシステムになっています。雨季だったので4日の内に3日は雨でしたが豪雨になろうがどうしようが一度プールに入った彩は上がろうとはしませんでした。一緒にプールに入っている44Kのパパはもう震えていました。まったく。







エンターテイメントはホテルスタッフ総出と言う感じでそれはにぎやかに楽しく夜をエンジョイさせてくれました。女房殿はエンターテナーに誘われて一緒に踊りだす始末です。もう子供から大人まで楽しめるものでした。







ホテルスタッフのエンタティナーたちとわれわれお客は渾然一体となって盛り上がりました。これがどうもクラブメッドの売りのようです、とてもよいシステムを作り上げていると感心しました。朝から晩まで続く色々な催し物は掲示板に書き出されてわれわれは自分の時間に合わせて遊べばよいのです。







ダイニングルームには世界の食事がそれぞれの国のシェフによって吟味されてでされていました。当然寿司刺身もありました。我が女房殿は一緒になったジャーマンの女性と意気投合して呑み始めてとうとうワイン3本もあけてしまいました。残ったボトルはまた部屋に持って帰ってもいいのですから酒飲みにはたまらないシステムでしょう。







朝食にはおどろく事に 納豆、味噌汁、焼き海苔、たくあんとありました。オジンのパパには嬉しい献立です。お客は西洋人が一番で二番が日本人そして韓国人といましたがタイ人はわれわれの家族だけだったと思ったら、4日目の帰る時に一組のタイ人家族とはじめて会いました。







キンタマニー高原に出かけました。運がよくてこの日だけは何とか晴れたのです。8世紀から12世紀にかけて作られたというヒンドーの寺院や有名な段々畑に目を奪われました。この寺院に行くのにはバスを降りてから結構な坂道と階段だというので体力のない私と家族はバイクタクシーに乗って運んでもらいました。












キンタマニー高原はすばらしいもので来てよかったと思わせられる迫力を持っていました。ふもとの村から山の中腹の村そして山頂の村と島民たちの生業が変わって同じように家の作り方も変わって来るのを目の当たりにするのは楽しいものがありました。私がこがれ続けたバリ島はその期待を決して裏切りはしませんでした。







親子三人始めての海外旅行です。しみじみと満たされた時間の連続です。今までに長いことバックパッカーで貧乏旅行をしてきた私にとって初めて与えられた楽しむだけのバケイションでした。







野生のオームがいました。帰り道に寄ったヒンドー寺院での事です。境内には透明な聖水がためられたくさんの鯉が泳いでいました。見ごとな山水自然との融和です。充分に私の愛するインドを偲ばせるバリ島です。







山腹に開かれ開墾され芸術の域にまで達したここの段々畑の迫力は息を呑むほどに美しいものでした。かつて数しれない芸術家たちがこの造詣に心惹かれ触発されて自分の創作に帰って行ったかと感じさせるほどのものです。人が大地とともに生きるという事の美しさを端的に表現しています。バリ島が世界の旅行者のひとつのあこがれである事が充分にうなづけました。






バリ島には高層ビルは国が許可を出さないから建造する事はありません。これは島の景観を損なわない為です。われわれにとっては嬉しい政策です。クラブメッドホテルも広大な敷地に渡り廊下によって繋がれたいくつもの棟があり、自然の豊かな景観の中をやたらに歩かせられるのです。これは運動不足の私にとっては嬉しい強制でした。














朝庭からはカッコーの鳴き声が響いてきました、、!!これは、私の生涯で二度目の出来事でした。感激です。一度目はヒマラヤ山ろくにこだまするカッコーの鳴き声をわたしは20数年前に聞いた事があります。また朝の食卓にはリスが遊びに来てわれわれと一緒に食事をするのです。







バリ島との別れの朝には赤ちゃんたちと遊びました。ここでは赤ちゃんから始まって全てのランクの子供たちが楽しめるようになっていて、親たちが好きにゴルフに興じる事も出来ます。おどろく事に敷地内にハーフのコースがあるのですから舌を蒔きます。







赤ちゃんたちはべビーシッターが預かってくれます。ですからパパはゴルフにママはエステにと家族にとっては至れり尽くせりのシステムです。日本には沖縄と北海道にあるとのことです。私はいまだに北海道には行ったことがないのでそのうちに家族を連れて行ってみようかという気になりました。







こうして2007年の新年を迎えた私でした。胃癌で胃を切ってから今年でとうとう5年目になりました!!この年を無事に越えられたら胃癌再発の心配はほとんどなくなるといわれています。満たされた新年を家族で迎える事が出来た私です。無事に本年も乗りきれることを確信しています。合掌。
FEB 2007 ペントハウス(最上階)
私はペントハウスに引っ越しました。20階にあって広いリビングキッチンとその二階には2ベッドルームがあります。なんと160へーベーですから約52坪です。また大きなプールがあって彩は大喜びです。通常この手のペントハウスを日本人が多く住むスクンビットエリアで借りたなら、えらい高いものになるのですがラチャダピセックにあるこのマンションは周囲の乱雑さと手抜き工事とやらでか、やたらに値が下がって約四分の一のレントになっています。わたしにとっては気にしなくても良い部分なので借りる事にしました。




久々の椰子の葉陰に風が流れるのを感じながらプールサイドでお昼寝です。彩はここに来て知り合った友達とあきもせずに水遊びです。満たされた時間がゆっくりとまどろんでいました。かつてインドのコバラムの浜で、エーゲ海のクレタの浜で、モルディブのラグーンを見ながら、椰子の葉陰の下に憩った若き日の自分が思い起こされます。




思いっきり広いリビングには43キロになったこの幽霊みたいな体に多少でも筋肉を取り戻そうとエクササイズマシーンを入れました。朝に夜に少しづつに筋肉トレーニングです。よってこの数週間で始めて2キロが増えて体重45キロになりました。今年中には何とか50キロにまでもっていきたいと祈願しています。店の大将にリポビタンDがいいといわれれば飲み、ケーキは肉が付くといわれれば食べとやっているこのごろです。




自分のこの床摺れした汚いガリガリの裸を見るにつけ、女房殿のお腹の妊娠線を見て、抱けなくなったというわたしの身勝手なわがままへの因果だと思い知っています。まったく見事なバランスからの返信です。古の人が言っていたような気がします、人を呪わば穴二つと、まさにその通りの現実です。




干からびてゆく自分に対して伸びやかに育とうとする娘、これは感謝です。安心して干からびてゆけるというものです。世のどこの親たちもがこの恩恵に浴しているのでしょう。この親であるという自負、こんな自分でも責任を問われる人間だったのかという発見のオドロキ。娘彩は多大なものを私にくれています。ですからこの子の母親には感謝しなくてはなりません。




常夏の国タイでは散水さえ怠らなければ木々たちは見事に育ってくれます。このプールサイドでは係りの人が毎日まめにケアーしているので緑たちは元気です。これを怠り枯らした木々たちを囲っているマンションやビジネスビルはその幸運を自ら失くしているのだと私は思っています。




彩の学校の成績が3,55になりました。この国では4がベストな成績なので彩は上位に入っています。この成績を維持できたならタイの東大といわれる、わたしに胃癌の手術をしてくれたかのチュラロンコン大学への入学が可能といわれています。ガンバレ彩、パッパーがお世話になった学びの殿堂へと、アヤもいけたらいいですね。




ママはパチュアップのおばあちゃんところに、いまはいるシムに合いにいったり彩の日々の学校送り迎えだったりと忙しく飛び回っています。よく飲み食いするから小錦のような体格になっています。頼もしきかなわが女房殿です!!せっかくプールがあるのだからと彼女も水着を買ったのはいいんですが、イザとなるとさすがに裸になって人前に出るのは気がとがめるらしくていまだに一度もプールに入っていません。




この女房殿がわずかに数年前(4年前)まではよくTVドラマの脇役として出ていて少しでもせりふをしゃべっていたなんてだれもが信じないでしょう。スーパースター大好き追っかけの女房殿はやたらにオーディションを受けては彼らと一緒にドラマに出られるのを至上の喜びにしていたのです。その頃にはだいたい週に2回ぐらいはママがTV画面に出てくるのでリビングでは大さわぎでした。看護婦だったり事務員だったりお姫様お付きの女官だったりです。





このペントハウスは20階にあってベッドルームは階段を上って21階になりますからバンコクダウンタウンを一望できます。リビングの広さといい陽のあたる明るさといい、毎日豪快に沈んでゆく夕日の景観といい、わたしにはいうことはありません。





この歳(62歳)になって、ようやくに自分の稼ぎで住めるようになった空間です。仕事をさせてくれている鮨忠&カーニバルwww.sushicyu.com)のオーナー大将福島にはまったくに感謝の一語につきます。彼との出会いが生んでくれている現実なのですから。
MAR 2007
食事時、ほんとうによく食べる女房殿の健啖ぶりにはわたしも彩もただあっけにとられて眺めているだけです。そして小錦のようなお腹!!それにしてもこれは出すぎではないかなっと思ったら、そうです、どう考えたってこれはお腹にやや子がいる大きさだとようやくに単細胞のパッパーは気づきました。これはまたパチュアップでシムの父親から仕込んできたものだろうと思い、なにげなく聞いて見ました。
「オイ、そのお腹にいる赤ちゃんはいつ生まれるの、来月か、再来月か。エッ、お医者にはいってるのかい?」
そういえば、去年の彩の誕生日の食事会のときに女房殿は言っていたのです。彩の弟が欲しいねと!!しかし、それでも私は彼女とは交わりがないのだから、もし、その時にはすでに仕込まれていたとしたなら、それが去年の7月の事だから、すでに9ヶ月になるはづです。
「また、なにいってるの、これはおばあちゃんに成ってからの食べすぎよ。それに運動もしてないから」
相変らずシラーッとして淡々と応えている女房殿です。でもどう考えても私にはやや子が入っているとしか思えないのです。このさい本当に彩の弟が出来たらいいなとか思っている私ですから、歓迎なのですが!!さて、真実はいかに、明日が楽しみになってきました。我ながら世にも珍しい家族ではないかとあきれてしまいます。
APR 2007
あんなに出ていた女房殿のお腹がやや凹んでいます。と思ったらまた2日後には出ていると言う感じです。どうやらただの食べ過ぎのようでした。残念ながら今回はコウノトリは飛ばなかったみたいです。おそまつでした。
APR 2007 ソンクラン休暇 プーケットクラブメッド
彩との思い出を作る為にタイ旧正月のソンクランに4泊5日でタイ南部のプーケット島に出かけました。先回のバリ島と同じに地中海クラブの(ホテルクラブメッド)です。スワンナプーム新空港からわずかに40分で島に到着です。水掛祭りたけなわの島内を数十分走ってホテルに到着です。日本女性に迎えられてジャスミンのレイを首にかけられほっとして部屋に案内されました。






プライベートビーチの海の綺麗さに舌を巻き、プールの大きさや楽しさに彩と共に大ハシャギのパッパーです。スペインから来たという双子のベイビーが彩と遊びたいとやってきました。だれもが友達になれる相変わらずの地中海クラブです。






胃癌で胃を切り取ってしまってから4年がたちましたが43Kだった体重がそれでも2K増えて45Kになった私です。骨カワスジ衛門の体を恥ずかしげもなく太陽にさらして彩と海に遊ぶ私です。
豊かな自然と共存する広大な敷地内はどこを歩いてもどこに目をやっても癒されるように熟慮されています。ここまで徹底してサービス業を営む姿勢には感嘆です。


彩にとっては初めてのテニスです。そういうパッパーも数回しかしたことがなくて自己流でボールをたたきに駆け回りました。





彩は美人のお猿さんとおそるおそる手をつないでジット見つめられていました。大きなベッドに大きなチェス板、一緒に行ったコイと二人であくことなく遊びます。


プールに入れば初対面でも子供たちはすぐに友達になって一緒に遊びます。この色の白い娘はママが日本人でパパがタイ人でした、私と同じにバンコクから遊びに来ていたようです。






浜辺にプールにサーカスブランコ、パワーの塊のような彩は時間を無視して遊びまくります。おかげでパッパーはへとへとです。





充分な時間があるのだから朝はパッパー1人でビレッジ内を散歩です。咲き競う南国の花にかかる朝の息吹がみずみずしく感じられて心行くまで無心になれる空間です。


朝から遊びまくって疲れきっている彩ですが、それでも動きをやめられない彩でした。お父さんは大変です。





毎夜繰り広げられるショウにはスタッフが入り乱れての饗宴であって楽しくあきさせません。このようなシステムを作り上げたフランス人には頭が下がる思いがします。大人から子ども、赤ちゃんに至るまでの行き届いたサービス。ホントにだれもがフレンドリーになって楽しめる空間なのです。





この同じサービスを全世界に広げて営業していると言うのが信じられなくなるほどのコントロールされつくしたリゾートなのです。食べ放題飲み放題遊び放題チャレンジ放題、、、、どうしたいいのか戸惑うほどの楽しいプログラムが用意されています。どのスタッフすれ違えば笑顔で挨拶してくれます。それも自然体でです。パッパーこの年になっての愛する娘との息抜きにはまったくうってつけの肌のぬくもりを感じることが出来る西洋がくれた賜物でしょうか。




ゴルフにテニスにアーチェリーとたくましくチャレンジする彩でした。バンコクではよくドライビングレンジには彩と行くのですがまだコースにはとても出れません。よって、ここではじめて彩はグリーンを回ったわけですが、スコアーは数え切れませんでした!!





ここに訪れるのはほとんどがヨーロッピアンです。米国人はあまり見当たりません。歴史の深さが生み出しているシステムかと思います。日本人のスタッフも常時7名ほどが勤めていてサービスに当たっていました。彼らは世界のメッドビレッジを転々としているようでした。だれもが日焼けして働きながら楽しんでいるみたいです。中にはプロの体操選手やサーカス団員もいてその技を披露してくれます。





一夜おとずれたタイコクナンバーワンといわれるファンタジアショー、それは見事なハイテクのステイジで彩たちは充分に堪能していました。しかしオジンのパッパーにしてみたら、中身のない唯に派手なパフォーマンスを見せるやらせのショーにしか見えませんでした。つまり感動が持続しないのです。単に旅行に来た子どもたちとその家族を楽しませる為だけに徹底しているようなので、それはそれでいいのかもしれません。





この先気になるクラブメッドは、タヒチボラボラ、モルディブ、石垣島ですがたぶん彩が一番行きたいのは東京デズニーランドでしょう。果てもなかった苦しいバックパッカーの一人旅を終えたわたしは今娘と共に楽しみエンジョイするだけのご褒美バカンスに浸っています。
JUN 2007 アユタヤ 登志子 夢子 NYより来る。 ほとんど彩とママが撮った写真です。
1991年にNYを船出した時に友人のスキップのボートから私を見送ってくれた当時4歳だった夢子が19歳の大学生になって母親の登志子さんと、なんと20数時間をかけてNYからバンコクに遊びに来ました。ホテルに泊るよりオイラのペントハウスには予備のベッドルームがあるからということで我が家へ宿泊です。





ソイトンローのロイヤルキッチンに出向いて北京ダックとフカヒレスープに挑戦です。残念な事にいつもおいしかったこの店が料理長が変わったのでしょうか、とても満足のゆく料理は出てきませんでした。





お相撲さんのように太った我が女房殿に連れられてお寺とかキックボクシングを見に行った夢子と登志子さんです。パッパーはお仕事でした。






ドレスアップしてオリエンタルのディナーショーに出向き対岸のサラリムナームに船でチャオプラヤ河を渡りました。感激のNYからのお二人です。






アユタヤの遺跡群と大きな象さんに乗ってお散歩です。象さんの背中は高いしゆれるし彩が言います「パッパーよく見えて楽しいけどこわいね」





仏陀に囲まれた遺跡群です。強烈なバイブレイションに誘われて古代へと一飛びです。人の世の争いごとに巻き込まれて傷ついたかわいそうな仏像群です。





アユタヤ王朝が滅びる時の痛手でしょうか首のない仏像や寺院が傷ついたまま燃えるような天日にさらされていました。せめてもこれからは大事にしていきたい遺跡です。





あまりの暑さに私だけは日傘をさしているのにもかかわらず、しまいには意識が朦朧としてきました「アヤー、助けてパッパーはもうダウンだよ」「ダーッメ パッパーもっと行くの、ホラあそこの塔にもーッ」。






夢子も彩も元気で動き回っていました、楽しい思い出が出来ました。わずかに3日間だけのニューヨーカーのバカンスです。彩は夢子にNYの携帯番号を聞いて手帳に書いていました。まさか電話でもするきかしらん!!


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私がNYを離れたのが1991年ですから彼女たちとは十五年ぶりの再会でした。上の写真が当時の夢子ですまだ4歳だったのです。空港に迎えに行ってまず私と登志子さんは互いに顔を見つめあったのですが、お互いにこれは違うここまで年はとっていないだろうと判断し目を放して彼女は行こうとしたのです。そこで傍らに寄り添っている女性を見たら色が白いハーフに見える娘でした。きっとこれが夢子だと判断した私は背中を見せていってしまおうとする彼女に声をかけたのです「トシコサン」そうして振り返った彼女はやはりトシコサンだったのです。お互いにびっくりです、オジンとおバンの再会でした。
JUN 2007 ママが撮ったシムの写真




手持ち無沙汰なシム、アヤがどういうわけか1人でなにやら食べていてかわいそうにシムはもの欲しそうに眺めています、ハイ写真撮るからいい顔してほっぺにはえくぼとかママに言われているようです、最後は泣きはらしたつぶらな目でカメラを睨んでいるシムです。この日はきっと月曜日だったのでしょう。なぜなら二人とも黄色いシャツを着ているからです。タイでは毎週月曜日はキングの日なのです。市民はキングの健康を祈って誰もが王族の色である黄色いポロシャツを着るのです。街中がこの日は黄色で溢れるのは壮観です。
JULY 2007 彩9歳になりました。
今回の彩の誕生日は私が仕事で時間が取れないので、おばさんたちのファミリーと女房の妹親子たちでバースデイケーキを囲んで楽しくやったようです。
今年から彩はタイ人用のインターナショナルスクールに通っています。タイ語と英語のクラスが半々で、水泳や柔道、ピアノのクラスもあります。
「彩は柔道面白いかい?」
「面白いけど彩クラスで一番ちっちゃいから組んでも投げられてばっか」
そういってパパに組みかかってくる彩は中々に引きの力も足掛けの力もありました。これなら来年には何とか一度くらいは友達を投げる事も出来るかなと一人思うパパでした。彩は身長120センチになりました!!
「ピアノはどうなの、うまくひけるかい」
「まだうまくないよパパ」
「、、、そうかい、、でも家で練習するのにピアノ買ってやろうか」
「まだいいよパパ、来年になったら買ってもらうかもしれない」
何でも欲しがる彩が、いいよといいました?彩はピアノが好きじゃないのかしらとか、考えてしまう、娘の心が読めないパッパーです。
マンションのプールで彩の友達と三人で泳ぐ時は大変です。パワー全開の子供たちとやっと48kになったまだふらふらのパッパーです。しばらくしたら彩が顔を赤くはれさせていました。どうしたのと聞いたら友達の足があたったといいます。
「危ないじゃないかその友達を呼んできなさいパパが気をつけるように怒ってあげるから」
その友達には先週にもわたしがプールで思いっきりキックを喰らって、いまだに腰が痛いのでした。だからこれはきつく言ってやらないといけないだろうと思ったのです。どうもパパの考えを察したらしい彩でした。
「ちがうよパパ、友達が悪いんじゃあないよ。彩の顔がそこにあったからいけないんだよ。だからパパーおこっちゃあだめだよ」
気の短いオジンパッパーが、またも彩にいさめられる場面でした。